The Man Whose Teeth Were All Exactly Alike
フィリップ・K・ディック

試訳です。誤訳・拙訳ご容赦。
第1章 | 第2章

第1章

 ウェストマリン水道会社の修理工は、岩や葉の間を蹴って、水道管とその破損箇所を見つけた。郡のトラックが水道管の上をバックで走り、その重みで水道管が壊れてしまったのだ。そのトラックは道路沿いの木の伐採に来ていて、先週から作業員がイトスギの上で枝打ちをしていた。水道会社に連絡したのはその作業員だった。消防署から水道会社のオフィスあるカーキネスまで電話してきた。

 この破損のために二十マイルも旅してきたわけだが、運転中は苛立ちは感じなかった。水道管は古くてもろい。一週間に一度は破損が見つかる。時には牛が足を突っ込んだり、時には木の根の力で水道管が割れたりするのだ。

 修理工は沿線の顧客に何度も「この水道管は交換した方がいい」と言ってきた。その気持ちを隠すことはなかった。「水道会社のオーナーは水圧が下がる夏場には昇圧ポンプをつけるべきだ」とも言っていたし、そのことをオーナーにも伝えていた。その水道会社は利益が上がらず毎年赤字で、オーナーは売却したがっていた。彼は維持費を削りに削った。

 修理工はあぜに登った。彼は破損個所を見つけ、二本のイトスギの間の地面に暗い水の跡が広がっていた。しかし彼はあわてなかった。

 木々の間から声が聞こえてきた。子供たちの声だ。彼は子供たちを引き連れて話している男を見た。修理工は、その人が四年生の担任のウォートン先生であることに気がついた。四年生の遠足だ。路肩にステーションワゴンが停まっており、水道会社のトラックとそう遠くない。修理工が通ったのと同じ道をウォートン先生とその子供たちがやってきて、やがて二人は顔を合わせた。

「また壊れたよ」修理工は言った。

「そうですか、驚きはしませんよ」ウォートン先生は言った。

「石灰抗へ行く途中かい?」石灰抗は道路から四分の一マイルほど入った小道沿いにあった。修理工も知っているように、ウォートン先生は毎年四年生を連れて石灰坑を見に行っていた。

「今年もその時期が来ました」ウォートン先生は微笑みながら言った。歩いてきたためか、丸くて赤い若い顔は紅潮し、額が光っていた。

 修理工は言った。「子供たちが水道管を踏みつけないようにしてくれよ」

 錆びついた古い鋳鉄の水道管が小学生の足で壊れるなんて…と二人は笑った。しかしそれほど面白い話ではなかったののだろう、二人から笑みが消えた。子供たちはまつぼっくりをぶつけ合いながら木々の間を歩き回り、大声を出しておしゃべりしている。

「水が汚染されているとボブ・モースが言っているのをどう思います?」ウォートン先生が言った。

「間違いないね」と修理工は言った。「間違いなくそうだ」

 修理工が怒らないのを見て、ウォートン先生は続けた。「ボウルの底が見えないほど濁っていることもあるんですよ。トイレが汚れるんです」

「それはほとんど水道管の錆だ」修理工は言った。「それは心配するほどのことじゃない」彼は爪先で汚れを引っ掻いた。二人ともじっと地面を見つめていた。「それより悩ましいのは」修理工は言った。「家庭の浄化槽からの水が水道管に浸透してくることだ。この辺りにはその水で汚染されていない井戸なんてない。違うなんて誰にも言わせないよ」

 ウォートン先生はうなずいた。

「この辺りでは絶対に井戸を掘っちゃいけない」修理工は言った。「水道会社からの水が錆でドロドロなのに腹を立てて、井戸を掘って見た目はきれいな水を手に入れた人をたくさん知ってる。だがその水は十倍も汚染されている。会社の水の汚染の原因はただひとつ――見た目はどうだっていいんだ。汚染の原因は浸透する水だけなんだ。くそったれな古いボロ水道管でも浸透するには相当時間がかかるさ」彼はそのことに興奮し始め、声を荒げた。

「なるほどね」ウォートン先生は納得したように言った。

 二人はしばらく歩き、子供たちもついてきた。

「風もなくいい天気ですね」とウォートン先生が言った。

「ここは涼しいね」と修理工が言った。「海岸に近い。私はサンラファエルから来たけれど、そこは本当に暑い」

「ああ、あの乾いた谷間の暑さには耐えられないですね」とウォートン先生は言った。

 二人とも、一日のうちで出会うほとんどすべての人に、そんなことを何度も何度も言うのが常だった。時には、この地域の医学博士であるテランス医師がどんな薬を処方しているか、また、テランス医師に診てもらう余裕がない人たちにカーキネスの薬剤師がどんな薬を出しているか、といった話もした。テランス医師は若い男性でとても忙しく、新車のクライスラーに乗っていて週末にこの地域にいることは決してなかった。週末に自動車事故が起きると、負傷者は運が無かったとしか言いようがない。タマルパイス山を越えて、ミルヴァレーまで運ばなければならないのだ。

「さて」ウォートン先生は言った。「私たちは墓地に行きます」

「どこへ行くって?」修理工は言った。

「次の目的地は墓地です。この近くに小さな古い墓地があるのをご存じないですか? 私はいつもクラスのみんなと一緒にそこを訪れるんです。百五十年前の墓石があるんですよ」

 ウォートンにとって、この地域の歴史とはここに住むことを意味するものだった。牧場主たちは皆、インディアンが作った矢じり、突錐、手斧のコレクションを持っていた。彼自身も立派なコレクションを持っており、黒曜石の矢尻や槍の穂先は黒光りし非常に硬い。それらにラベルを付けてガラスケースに陳列し、訪れる保護者に見せるために小学校のロビーに置いていた。

 多くの点でウォートンはインディアンの遺物に関するこの地域の権威であった。彼はサイエンティフィック・アメリカンを購読し、家ではヘビを飼い、仕事部屋には岩石や化石のコレクション、タマガイや虫の抜け殻、サメの卵などがあった。その中でも三葉虫の化石は、彼の心の中で最も素晴らしいものとして位置づけられていた。しかし教室や自宅の来客に見せるには、放射性物質を含んだ岩石が最適だった。紫外線を当てると(彼はそんな電球のランプを持っていた)、岩石はさまざまな色に輝くのだ。奇妙な岩石や植物、鳥の卵、化石やインディアンの遺物らしいものを見つけると、誰もが彼のところに持ってきた。そしてその発見が重要なものであるかどうか、必ずと言っていいほど見分けることができた。

 ほぼ放置され、地域の一部の大人しか知らない小さな古い墓地は、確かに歴史があった。この地域に最初に入植した家族が埋葬されているのだ。スイスやイタリアの古い名前が並んでいる。墓石のいくつかは倒れていた。ホリネズミが地面を凸凹にし、高台に生えていた野バラの木以外の植物はすべて食べつくしていた。最も古い墓は、素人仕事で彫られた木の十字架で示されていたが、そのうちのいくつかは草やカラスムギの中に消えていた。

 おそらく外から来た人たちが、時々花を供えていた。毎年ここで授業をするころには、マヨネーズの瓶やコップが散乱し、そこから枯れた茎や花が突き出ていたり、側面にぶらさがっていたりするのだ。

 ウォートンと彼のクラスが墓地の方向に小道を進んでいると、一人の少女が先生の横にやってきて話し始めた。話しながらのぶらぶら歩きの最後に、彼女はためらいがちに聞いてきた。「幽霊を信じますか」毎年この小旅行では、クラスの少なくとも一人が不安になりがちだが、彼はそれに慣れていて、自分の答えを持っていた。

 彼らみんなと話すと、ウォートンは日曜学校のことを思い出す。この地域の子供たちは皆、日曜学校に通っていて、天国について教わっていた。死者の魂が天国に行くのなら、どうしてこの世を忘れられない幽霊がいるのだろう? 彼は言った。魂は神様からやってきて(少なくとも子供たちはそう教えられてきた)、自然に帰っていくんだ。死者の魂を心配するのは、来る世代のまだ生まれていない人たちの魂を心配するのと同じくらい馬鹿馬鹿しいことなんだよと。

 そして立ち止まって、さらに自分の専門分野に関する事柄を話した。

「ごらん」まわりの木々や茂み、土そのものを指さしながら、彼は言った。単に亡くなった人たちのことだけを考えちゃいけない。すべての命について考えるんだ。命は何百万年もの間、生まれては消え、生まれては消えていったんだ。彼らはどこに行ったのだろう? 土に還ったんだ。新しい生命が生まれ、その寿命を全うし、そしてまた消えゆく、大地は密で肥沃な層をなしているんだ。それが自然で秩序あることなんだ。死者は一つになったんだ。バクテリアから植物、小動物、そして人間まで、みな足元に横たわっている。それが過去というもの。そして、それはなんと素晴らしいシステムなのだろう。彼は立ち止まり、マドロンの木の根元に積まれた落ち葉の堆肥の山を見せた。そして白亜の菌類。土と腐った植物の繊維が混ざったものに指を滑らせながら、それがいかに肥沃で水分を含んでいるかを生徒に見せ、その匂いを嗅がせ、触らせた。人間にも違いはない。このプロセスには私たちの祖先も関わっているんだ。彼の見識によって、例年通り子供たちは落ち着いた。子供たちの不安は消えた。早口でぎこちないおしゃべりや笑い声も止んだ。万物の成長のサイクルをこの恵まれた環境で知ってもらうことが、彼らをここに連れてきた理由だ。自分たちもそこに含まれると。自然を恐れるな、と彼は言った。そして覚えておいてほしい――すべては自然のうちに起こる。自然の外には何もないんだ。そして、教理問答や日曜学校で教えられたことを否定することなく、彼なりのやり方で子どもたちの迷信を減らしていった。

 小さな田舎町で小学校の教師をしていたことで、彼は機転が利くようになった。両親は農家で、宗教も政治も社会思想もすべて原理主義者だったと思う。彼のクラスには牧場育ちののろまな十二歳の少年たちがいたが、本当に頭が悪く、字を教えるのもやっとだった。彼らはいずれは牧場に戻って乳搾り係になる。彼らの人生は決まっていた。また彼のクラスには、都会から引っ越してきた家庭の聡明な子供たちもいた。小さな小売業や歯科医、あるいは専門職ともいえる仕事をしている父親を持つ、意欲的な子供たちもいた。中にはビーチに面した家を持つとても裕福な家庭の子たちもいた。

 前方にはみかげ石の石碑が見えている。最も大きく華麗なものだ。

 しかし、ウォートン先生と四年生の生徒たちは、墓地の中心にある立派な地下室や彫像に興味があったわけではなく、最も古い墓を調べに来たのだ。墓地の端にある墓は、中には墓地を囲んでいる木の柵を越えているものもあった。その小さな昔の墓標は、墓地からマクレー牧場の放牧地へ斜面を滑り落ちたのだろうか。それとも、十数年前にフェンスが立てられた時、建設者がそのような貧弱な墓に気づかず無視してしまったのだろうか。

 ウォートン先生が門を開けると、数頭の牛が授業を見ていた。牛は墓地には入ってこられない。

 すでに何人かの生徒が最初の墓に駆け寄り、墓石に刻まれた日付を叫んでいた。「1884年!」彼らは指をさして大声を上げた。「見て、ウォートン先生!」

 不動産屋のレオ・ランシブルは、彼の車に老夫婦を乗せて台地の道を走っていた。二人の老人は風と湿気に不満げにつぶやいた。ここは内陸部と違って、それほど健康にいいとは思っていないようだ。シダが多すぎると、ある家を見に行ったとき老人は言った。老齢のせいか彼が鋭いことを言うのは少しの間だけだが、シダのあるところには常に湿気があるのだ。

「ええと」ランシブルは言った。「問題ありませんよ。ご説明しましょう。その理由は簡単で、乾燥した広い農地に素晴らしい外観の家が、ご希望の価格帯にいくつかあるからです」。そして今、彼らはそれらの家を見に行くことになった。

 しかしもちろんそれは農場の家屋で、先ほど案内したボリナス山地の東側にあったようなおしゃれな家ではない。外観もよくない。ランシブルはそのことを知っていたし、この老夫婦にとってその家は手入れされていない汚い小屋にしか見えないだろうことも知っていた。この家々は工場労働者や郡道労働者が建てたものだった。とても低級なもので、泥の土台の上に建っている。彼はその家々を見せるのが嫌で、リストに載せていなかった。頼むよ、彼は思った。夕暮れ時に庭に出て、霧と風を浴びるつもりなのか? それとも室内で、暖房の効いたリビングにいるつもりなのか? 彼は、この老人たちが農家の小屋を買うことはないだろう、と車を走らせながら心の中で思い描いた。もし売るとしたら、リッジに戻って丘の中腹にある漆喰か板葺きの家だろう。白い板張りの小屋ではない。

 老人は言った。「これから案内してくれる場所は、土地がたくさんあるのかね」

「いいえ」とランシブルは言った。「それにあなたがたが賢明なら、広い土地は必要ありません」二人の老人は、彼の口調の強さにつられて、素直に耳を傾けた。「男性は年をとったら、ご自身の楽しみを始めたいと思うでしょう。十エーカーの雑草の奴隷ではなくてね。毎年火災の危険があるからと、郡から草刈りを要求されるんです。言っておかなければなりませんが、郡が繁殖放置を禁じている四十種類以上の雑草のリストがあるんです。それぞれの雑草がどんなものか知っておかなければならないし、まあ、その雑草で捕まらないようにしないと、さもなければかなりの罰金です」

 老婦人は言った。「なぜ郡が気にするの?」

「家畜への危険性です」とランシブルは言った。「郵便局に貼ってあるリストを見てください。有害な雑草で、広がっていくんです」

 これから紹介する家々は、いくつかの郡道沿いに雑然と並び、それぞれの家から次の家が見えた。そのうちの何軒かの庭には錆びた車体が積まれていた。彼はここを通って気づくたびに怒りがこみあげてくる。しかし今は州法がある…ハイウェイのパトロール隊かサンラファエルの誰かに、この地域の違反者の名前を書いて送ってやろうか、と彼は考えた。資産価値は下がる一方だ。こんな輩は隣人のことなど気にもかけないのだろうか。

「ディタースさん、お仕事は何をなさっているんですか」と老人に訊ねた。

「今は引退しているよ」老人は言った。「銀行員だったんだ。アメリカン・トラスト・カンパニーに長いこと勤めて、その前はクロッカーに勤めてた」

 老夫婦は、予算は九千ドル以下でと言っていた。しかし、ランシブルは一万ドル、あるいは一万五千ドルにまで引き上げられると判断した。その価格帯の家が何軒かあるので、明るい気持ちになった。それに天気も良かった。夏は地面がぬかるんでいないし、空気も冷たくないので見せやすい。

 右手には茶色の畑が広がっている。葦と水に架かる橋。

「この辺りの公共インフラはどうなっているの?」ディタース夫人が言った。「天然ガスはないんでしょう?」

「はい、ここはブタンを使ってます」ランシブルは言った。「電気はPG&Eから。水はカーキネスのウェストマリン水道会社から供給されています」

「ゴミの回収は?」と老人は聞いた。

「毎週です。浄化槽のサービスもあります」

「なるほど」老婦人は言った。「ここには下水道はないのね」

「ここは田舎なんですよ」ランシブルは言った。「でも覚えておいてください、市税を払う必要はありません。消防署はカーキネスにあるし、保安官代理、医者、歯医者、食料品店、ドラッグストア、郵便局――必要なものは何でも揃っていますよ。街には歩いて行きますか、それとも車で?」彼らはランシブル不動産にとてもよく手入れされた古い黒のパッカードで来ていた。

「週に一度はサンラファエルまで車で買い物に行くかもしれない」とディタース氏は言った。「地元で買い物をするよりも安上がりだろう」

「ちょっと待ってください」ランシブルは言った。『もっと安くならないか?』これは、彼が決して好きではない言葉だった。この地域から、地元の商売人たちからビジネスを奪ってしまうことだからだ。彼らはあなたの隣人なんですよ、と彼は思った。あるいはこれからそうなるかもしれない。それにガソリン代もかかる。それにタマルパイス山を越えるのにかかる時間。一日がかりの旅だ。「ここでは必要なサービスが受けられますよ」と彼は言った。「それも手ごろな値段で。それにひとこと、もしあなたが小さな町に住んだことがないのなら、きっと素晴らしい発見があるはずです。売り物の後ろには、ここの商売人たちがいるのです。そうしなければならないのです。彼らはあなたがたとまた会うでしょう。もしかしたら、あなたの子供と彼らの子供が一緒にブルーバードに行くかもしれないのです。また、お子さんがいらっしゃらない方でも、地域の方とは顔見知りでしょうし、地元のお店でひどい目に遭えば、それが周囲に伝わってしまう。それを心に留め置いてください。人間味のないサービスではなく、古き良き時代と同じです。みんな人と人との商売です」

 彼は話しながら、県道から未舗装の道路に車を走らせた。前方、竹林の後ろにピーターソンの小屋があり、ゴミ箱から溢れたゴミの中で薄汚れた子供たちが遊んでいた。

「もちろん」彼は低い声で言った。「このあたりはその地元とは関係ありません。このあたりの住人はパートタイム労働者ばかりです。でもみんないい人たちですよ」車を止めて、彼はドアを開けた。ピーターソン夫人が一階建て四部屋の家のポーチに出てきた。彼女は手を振り、彼は手を振り返した。犬が吠えながら現れた。

 ディタース氏は車から降りずに言った。「ここは私達には向かないと思う」

「そう思うわ」妻も同意見だった。家を見ようとせず、明らかに帰りたがっていた。

「値段は手頃ですよ」ランシブルはこの状況を楽しんでいるようだった。ここに来たのはあなたの考えですよ、と彼は心の中で思った。貧乏人の穴ぼこを案内するのが終わったら、リッジに家を買って喜ぶだろうさ。

「不毛だわ」ディタース夫人は言った。

 やや哀れんで彼は二人に言った。「最初は少し寂しいかもしれませんね。でもそのうち慣れますよ。住人は親切だし、いつでも手を差し伸べてくれます。誰もドアに鍵をかけないんですよ」彼は車を発進させ、走り出した。

 二人の老人は感謝し、頭を下げた。

 ランシブル自身はこの地によそ者としてやってきた。第二次世界大戦前、彼はロサンゼルスに住んでいた。1940年に海軍に入隊し、1944年にはオーストラリア沖で駆潜艇の指揮を執った。その年に(彼が言うには)最高の称号を手にした。「ヨム・キプール*1の日に日本軍の潜水艦を沈めた世界で唯一のユダヤ人」である。戦後、彼はサンフランシスコで共同経営者とともに不動産業を営んだ。1955年にはカーキネスに夏の山小屋を買った。水の近くにいたいと思って、一度ヨットクラブを作ったことがある。実際には廃れた古いヨットクラブを再編したのだが。そして三年前の1957年に事務所をカーキネスに移した。彼の競争相手はのろまで気弱な地元民のトーマスだった。トーマスは、カーキネスで対抗馬なく三十五年間も不動産や保険を売ってきたが、(ランシブルによると)もうじき死ぬという。トーマスは相変わらず年配の住民の間での家の売買を扱っていたが、ランシブル不動産はこの地にやってくる老若男女の新しい人たちすべてを対象にしていた。

 サンラファエルの新聞に掲載された彼の広告を見て、多くの住宅購入者が集まってきた。彼らはカーキネスのことなど知らなかった。カーキネスは海沿いのボリナスから少し北にあり、タマルパイス山によってマリン郡の他の地域から切り離されていたからだ。かつては、サンフランシスコや郡の平地で仕事をしながら山の西側に住もう、などとは誰も考えなかっただろう。しかし道路は整備されてきたし、車も改良された。そして毎月のように多くの人がマリン郡に引っ越してくるようになった。大きな町はすでに過密状態になっていたし、不動産価格も上がっていた。

「素敵な木ね」ディタース夫人は言った。今、彼らはもう一度森の中に戻ってきた。「日差しの後の木陰は気持ちいいわ」

 道沿いに、子供たちの集団が男の後をついて歩いていた。ランシブルはその男に見覚えがあった。九歳になる彼の息子、ジェロームもその中にいた。ウォートン先生は通り過ぎる車から離れるように、注意深く手を振った。子供たちは草におおわれた路肩で立ち止まり、そのうちの何人かはスチュードベーカーに気づいて手を振った。息子の顔が明るくなり、ジェロームの腕が上下に動くのが見えた。

「ハイキングに行ってたんです」ランシブルはディタース夫妻に言った。「小学校の四年生たちですよ」彼に手を振ってくれる人々、息子の笑顔、そしてウォートン先生が彼に気づいて会釈する光景を見て、彼は誇らしさとゆったりとした喜びを感じた。

 しばらくここに住めばあなたがたにも手を振ってくれるようになるんだ、とランシブルは思った。そうなればあなたがたも嬉しいだろう。あなたがた二人のようなか弱い孤独な老いた都会人は、人生の終わりに自分の居場所となる安全で快適な場所にあこがれを抱いているのだから。

 私はあなたたちに親切にしようと思った。この地であなたがたの住いを見つけるために。みんなが知り合いどうしのこの地で。彼はカーキネス小学校の四年生に手を振り続け、ディタース夫妻はそんな彼をじっと見つめた。そこにはどんな渇望があるのだろう。羨望の眼差しだ。

 彼は確信した。彼らに家を売ることができるだろう。おそらくこの旅で。それはカバンの中に入っていた。

第2章

 一階の作業場の入り口で、ウォルター・ドンブロジオはエナメルの缶を二つ置いた。旋盤で作業している男たちに彼は言った。「試合は続いてるのかい? たった今ウィリーが倒れたのに」

 掃除の少年は、桶に木くずを詰めて立っていた。「とにかくジャイアンツが得点したんだ」

「あの新しい二塁手は本当に熱いな」作業員の一人が言った。旋盤を回し始めたので、その音で話は終わった。ドンブロジオも掃除の少年も待っていた。そして音がやむと会話を再開した。

「やあ、いっとくけど」ドンブロジオは言った。「四万人のファンの前で倒れるなんて、死んでもごめんだね」彼は野球に関心があったわけではなかったが、この店の階下に降りてきたとき、野球の話をしなければならない雰囲気だった。そして自分も野球を観戦しているのだということをアピールした。上の階でスーツを着てネクタイをして働ていても、彼らと何ら変わりはないのだ。「彼は一生懸命すぎる」ドンブロジオは言った。「一生懸命になりすぎるということはこういうことだ証明しているんだ」

 作業員はうなずいて、もう一度旋盤が動き出した。彼らはドンブロジオの顔が赤くなるのを感じだが、彼の意見には気をかけなかった。ドンブロジオはエナメルの缶を手に取り階段のほうに移動した。何か心が痛み、彼はそのまま二階へ戻っていった。

 ここメインフロアは天井が垂木に隠れていて、柱の蛍光灯は明るいが、工房のようには陽の光が入らない。隅は涼しくほの暗い…セロテックス*2のおかげで音が響かず、モダンな質感と味のある室内になっている。米やビールの新しいパッケージを考える会社としてはそれなりの格好だろう。それもサンフランシスコのウォーターフロントにある倉庫でだ。むき出しの木製の梁、すべてフィットしている。正面には受付。そして、商品サンプルの展示。

 セロテックスの施工と塗装は彼自身が行った。不思議なことに、このセロテックスのおかげで受付の電動タイプライターの音が散らばり、この場所がどれほど広いのか、誰も想像できないほどだった。音が小さくなったように感じるのだ。しかし、実際にはラウシュ社は小さかった。ラボに通じるはずのドアは、実は物置に通じている。今、彼はエナメル缶を持って、新しい容器を設計している秘密のエリアに入った。しかしこの主要なエリアでさえ、ご婦人のためのティーショップの敷地ほどの広さしかない。そして机でいっぱいだった。デザイナーは三人ともイーゼルを抱えている。

 ひとつめの机には責任を放棄したかのような見た目のデザイナーが座り、その前にある仕事机の上のラッキーラガービールの缶の影に隠れているようだ。まっすぐ立った缶は満タンに見える。そしてピカピカの金属製の蓋は開けられていない。

「やあ、ウォルト」ボブ・フォックスが微笑みながら言った。彼は缶ビールを持ち上げて、ドンブロジオに差し出した。「一緒にどうだ」

 もちろん、缶はセメント製だった。ドンブロジオはそれを受け取ったが、重く、鈍く、その感触に説得力がない。それは見た目はそのものなのだが、それで十分だった。写真に撮ったり、模擬食料品店の棚に並べたりすれば本物らしく見える。ラッキーラガー社の代理人は、この新しい容器デザインを受け入れるか否かの判断材料にすることができるのだ。

 この缶ビールを飲むように持って、ドンブロジオはフォックスと一緒に二人の恒例行事をした。実在しない容器の中身を空想の中で消費するのだ。ある日はビール、またある日は見えないシリアル、アイスクリーム、冷凍野菜を食べ、見せかけのタバコを吸い、ある時は受付嬢に見えないナイロンストッキングをプレゼントしたこともあった。空想の国だ…。

「温かすぎないか?」フォックスは缶ビールを指差して言った。「冷蔵庫の中にもあるよ。そっちがいいなら」

「いや」彼は言った。「これでいい」

 缶ビールを持って彼はぼんやりと部屋の中を歩き、自分の席に向かった。

「俺の芸術品だ」フォックスが言って、缶を取りについて行った。

 ドンブロジオはそれを返すと、自分の机に座り再び自分の仕事を再開した。

「何をやっているんだ?」フォックスが言った。彼は手を伸ばして石膏でできた割型を手に取り、手際よくそれを調べた。「このプロジェクトはよく知らないんだ。これはあの小さなフランス車のバンパーガードじゃないのか」

「いいや」ドンブロジオは言って型を取り返した。「これは私が勝手にやっていることだよ」彼は説明した。「ただの冗談さ」

「ああ」フォックスは知っているように頷いた。「また悪ふざけかい」もう一人のデザイナー、ピート・クインが一瞬立ち止まり、フォックスは彼に言った。「この男とヘンリー・フォードのいたずらを覚えているか?」彼はドンブロジオの大学時代の向こう見ずで突飛ないたずらの話を繰り返した。

 それは1940年代のことだった。ウォルト・ドンブロジオは、ディアボーンにあるフォード社に就職した、自分より少し年上の男たちを何人か知っていた。当時の彼は自宅のガレージに工房を持ち、自作のコスチュームを作ったことがあった。最初はゴム製のマスクで、緑がかった死体のような顔、突き出た歯、こけた頬、髪は苔のようで額に垂れていた。色あせたフロックコートに、杖、スパッツ、黒のオックスフォード靴。手探りでフォードのデザイナーの家に侵入し、彼らを見たのだ。最初のぞっとする瞬間、まるで墓から蘇った老人のようだった。

 当時は趣味だった。しかし、今はビジネスである。

「あいつらの顔が見たかったよ」フォックスは締めくくった。「ウォルトがドアを叩きながら、よだれを垂らし、ぶつぶつ言いながら、やみくもにあちこち突き回っていた時の顔をね」彼は笑い、クインも笑った。

「他にどんないたずらをやったんだ?」クインは尋ねた。彼はデザイナーの中で最も新しく、一ヶ月ほど前に職場に来たばかりだった。

「いやあ」ドンブロジオは言った。「全部は思い出せないくらいたくさんやったよ。あのフォードのいたずらなんてたいしたことないよ。ひとつだけ話そう、これは本当の話だ」

 この悪ふざけは残酷なものであり、彼はそれを知っていた。彼はそれを話すとき、より独創的に、より面白くなるように改変した。彼は話の中で、それを陽気なものに変えた。それを聞いていた二人の男は満足の笑みを浮かべ、それで彼はさらに話を盛っていった。彼は気づくと身振り手振りでいたずらの様子を空中に描き出した。彼らみんなにとっては現実になったのだ。

 それが終わると、フォックスとクインは帰ってしまい、彼は一人机に向かい、がっかりした気持ちになった。

 まず話を盛ってしまったことが恥ずかしくなった。話している間は興奮に身を任せることができたが、その後、今のように一人になった彼には、自分を守ってくれる感情も関わりもないのである。ひとつには、現実的な観点のみで言えば、彼はうそつきとして知られるようになる可能性があった。おそらく、ラウシュ社の他の人たちの間では、すでにそのような評判になっていたのだろう。男たちは彼の話を笑って聞いていたが、彼の視界から消えると、互いにウィンクをして、他の人も言っていたことを言うのだ。信用できない、と。もちろん信用されることは大切なことだ。特に真実の問題では。

 真実を語らない人は、おそらく真実を見分けることができないのだろうと、彼は思案した。彼や彼の物語に当てはめれば、そのような心理が働くかもしれない。そして、彼の仕事では、事実と虚構を見分けることができるということは、広く考えれば経済的な重大な意味を持つのである。

 彼はよくやることだが、机の前に座って自分が彼らの立場になって考え、彼らにどう見えるかを想像してみた。背が高く、これは間違いない、額が突き出ていて、髪の毛は薄くなりかけている。眼鏡は黒くて重く、妻が言うように「インテリ」のような見た目だ。学者肌というか、厳しく不安げな顔をしている。

 椅子を机からずらして、彼は自分の姿が見られてないかどうか、ちらりと見た。大丈夫だ。慎重に手を下ろし、ズボンの中に手を入れた。この数ヶ月、彼は何度もこのようにしてきた。足の付け根を調べると、痛みが走った。塗料の缶を運んでいるとき、彼は再びその痛みを感じたのだ。そして今、我慢できない。

 いや、足の付け根に出っ張りはない。片側が膨らんだ、パン生地のような腫れもない。彼は自分の肉付きが嫌になり、見慣れたその部位をなでた。こんなことをしても楽しくはないが、これは必要なことだった。もしある日、痛みの後にもう一度その腫れを見つけたとしたら? 何年も前と同じように。その時はどうする? ついに手術か?

 ヘルニアはおそらくなくなっていた。しかし、絶対ではない。それにたとえ治ったとしても、また再発するかもしれない。過度な負荷でぶり返すだろう。重すぎるダンボールを持ち上げたり、電球をねじ込むために手を伸ばしたり…そうすればまた恐ろしい裂け目ができて、さらに何年もベルトをするか、長い間先延ばしにしていた手術をするか。

 手術のリスク、それは彼が不妊症になるかもしれないという恐ろしいリスクである。まだ子供のいない彼は、手術の前から不妊だが。

 煮え切らずに足の付け根をさすりながら座っていると、視界の端に一瞬何かが動いたのが見えた。誰かが自分の机に向かってきたのだ。彼はズボンの下から手を出したが、その瞬間その人は机の前に現れ、手を出したままの彼の前で立ち止まった。見られたと思うと、恐ろしい罪を感じ、幼い頃の恥ずかしさが蘇ってきた…その人は女性だったのだ。顔を紅潮させながら目をそらすと、女性のコートとハンドバッグ、そしておしゃれにめかしたショートヘアの女性が目に入った。そしてそれが自分の妻であることに気がついた。シェリーが事務所に来たのだ。彼女がここにいる。見上げると彼女は彼をじっと見ていた。罪悪感はますます大きくなり、それが自分の顔に現れていることを彼は知っていた。

「何をしてたの?」彼女は言った。

 彼は言った。「何も」

「昼間はここで何してるの?」

 彼は頭を下げて座り、手を握ったり開いたりしていた。

「小切手を現金に換えに来たのよ」シェリーは陽気に言った。「髪を切って、昼食をとるつもりよ」

「どうやってこの街に来たんだ?」もちろん、彼は仕事のために車で来ていた。今はガレージで修理中で、動いてもいない。

「ドリー・ファーガソンが運転してくれたのよ」彼女は席についてバッグを開け、ペンと小切手帳を取り出し小切手を書き始めた。

「髪を切るためにわざわざ来たのかい?」

「そうよ」彼女は小切手を彼に渡すと、ペンと小切手帳をバッグにしまい始めた。

「私に渡すなよ」彼は言った。「経理係に持っていってくれ。私は仕事があるんだ」

「私が来たとき、あなたは仕事をしていなかったわ」妻は言った。「ほら、急いでるのよ」彼女は冷静に彼と向き合った。結局彼は手を伸ばし、小切手を受け取った。「ありがとう」彼女は言った。

 数分後、彼は経理係に行って、簿記係がお金を持ってくるのを待っていた。ここからはまだシェリーの姿が見える。彼女は机の間を移動しながら、デザイナーとおしゃべりしていた。もちろん、ここの誰もが彼女を知っていて、彼女に微笑んでいた。そのうちに、彼女はいろいろな制作中の作品を覗き込んでいた。

 彼女の本性を知れば、と彼は思った。みんな自分の仕事は自分でやるようになるだろうよ。

 アイデアを盗まれるぞ。スパイが入るんじゃないかといつも心配してるじゃないか。彼女はそれを街で売りさばくんだ。

 妻もデザイナーもとても楽しそうだ。なんて簡単に馴染むんだろう。シェリーは机の端に座って、サンダルと手作りのイヤリングでとてもおしゃれだ。茶色のウールのスーツもぴったりだ。

 できるだけ急いで戻ってきた彼は、妻とクインのそばにきた。二人ともクインの描いた図面を調べていたが、どちらも彼には気づかなかった。シェリーが細かいところを指摘したのだろう、クインは顔をしかめていた。彼女は悪いところを教えてくれるだろう、と彼は思った。

 彼は声に出して言った。「彼女が改善してくれるよ」彼は冗談めかした調子でそう言うと、シェリーもクインも微笑んだ。しかしクインは自分の図面を調べ続けた。

「シェリーは大学で一年間美術を履修したんだ」ドンブロジオは言った。

「三年よ」シェリーは静かに言った。

「ああ」彼は大袈裟に言った。「申し訳ございません」

「それに」彼女は言った。「あなたは私の作品を忘れているわ」

「君の何?」彼は言った。

「モビール*3よ」

 彼はクィンに言った。「流木のね」

 シェリーは言った。「それに革細工も。ジュエリーも。いろいろやったけど、なんとか続けてきたわ」

「一日中家にいて何もすることがないのに?」彼は言った。「世界で一番暇なのに?」

「子供ができるまで待てよ」クインはつぶやいた。

「その時が来たらね」シェリーは言った。

 気を引こうとしてクインにウィンクをしながら彼は言った。「シェリーが電動旋盤で作業しているところを見てみたいもんだ。彼女が何をするかわかるかい? 手をドリルで貫通させるんだ」彼は手を伸ばして妻の右手を握った。しかし彼女はとても力強くそれを引き離した。彼女の滑らかな指と緑色に染まった爪が、彼から滑り落ちた。「緑色だ」彼は言った。彼はクィンに言った。「緑色の爪の女性の展示をしたことがあったな、それとなんだっけ、メタリックシルバーの髪だ」彼は笑った。「彼女は八十歳くらいに見えたよ」

「今じゃ当り前よ」シェリーは言った。彼女は立ち上がり、彼からお金を受け取った。「小切手を換金してくれてありがとう。今夜また会いましょう」

 彼女はドアに向かって歩き、彼もそれに続いた。

「ところで」彼女は言い、考え込むように立ち止まった。「あなたに聞きたいことがあるの。家の裏の浄化槽のあるところを知ってる? その先にテラスがあるでしょ。そこから水が浸み出してるところがあるの、どういうことかしら? 今朝、プールみたいになってて…」彼女は曖昧な動きをした。「そんなに大きくない。雑草が生えてきてるから、少なくとも一週間はそこにあったはず。あそこは濾過管*4のあるところでしょう? 濾過管から浸み出ているんだわ」

「そう」彼は言った。「オーバーフローだ」

「心配する必要ある?」

 彼は言った、「いや、普通のことだ」

「自信ある?」

「あるさ」彼は言った。

「あら」彼女は言った 彼女の油断のない青灰色の瞳が彼を見つめた。「この世界では、自信があるときは注意が必要だわ」

 彼は苛立ちながら言った。「たとえばお風呂に入ったときや洗濯機を使ったときのように、液体が配管に流れ込むと…」

「洗濯機は水を循環させてるんじゃ?」

「結局は配管の中に入ってしまうんだ。その水が表面に滲み出ているのは――明らかに低いところだ。最初からそうだったんだろうけど、今になって気づいたんだね」

「冬になったらもっとひどくなるわね」

「たしかに」彼は辛抱強く言った。「地面があまり水を吸わないからだ」

「ジョン・フローレスを呼ぶべき?」

 地元の浄化槽屋だ。「いいや」彼は言った。

「じゃあ誰?」

「必要ないよ」彼は近くの机からメモ帳を取り出し、ペンでスケッチした。「濾過管の仕組みがわからないのかい? 浄化槽に物を入れると、そこで固形物が沈んでバクテリアが働くんだ。液体はそのままタンクから排出されるんだよ」

 彼のスケッチを見てシェリーは言った。「とても奥深いわね。でも私はアーバースを呼んだわ。この家を建てるのを請け負ってくれた」

 彼は面食らって彼女を見つめた。彼は言うことが思いつかなかった。「どういうことだい?」彼はついに言った。「いつ電話したんだ? なぜ最初に私に相談しなかったんだ?」

 彼女は肩をすくめた。「あなたは仕事に向かっていたわ」

「彼は何と言った?」

「彼は言ってたわ。こんな時間に濾過管がこうなるはずはない。ひどく悪い兆候ですって。彼は明日の朝、できるだけ早く来て見てくれるそうよ。百フィートくらい配管が必要かもしれないわ」彼女の顔にはかすかにあざけるような笑みが浮かんでいた。

「電話したのなら」彼はつっかえながら言った。「なぜ深刻かどうか私に聞いたんだ? すでに知っていたのに? それに見積もりはいくら? それとも、わざわざ聞いたの?」

「一フィート二ドルくらいよ」シェリーは言った。

 しばらくして彼は言った。「なら、二百ドルか」

「高いわね」彼女は言った。「でもアーバースの話からすると、そうせざるを得ないのかもしれないわ」彼女はいたって冷静のようだ。

 できるだけ落ち着いて彼は言った。「濾過管に二百ドルもかけられない」

「アーバースと率直に話し合ったわ。四回に分けて支払えばいい。でもフローレスにも電話したの。なるべく多くの見積もりを取るべきだと思うの」

「私に相談するべきだった」彼はかすれた声で言った。「私に言うべきで、そうすれば私がアーバースに電話したさ。それは私が決めることで、君じゃない。そんな大金を使う気にはなれないよ。その辺の高校生を雇って、パイプはグランディーズから、砂利はトカロマから持ってくるさ。ダンプカーを借りてくるよ!」

「アーバースが言うには」妻が言った。「たぶん最初にちゃんとやらなかったから、トラブルが起きたんだろうって。ちゃんとするべきだったわ」時計を見て、彼女は突然振り返り急いで立ち去った。ドリー・ファーガソンが廊下に立っているのがちらりと見えた。彼女もおしゃれしている。彼女たち二人とも買い物と食事で一日過ごすのを楽しみにしていた。

 彼が彼女の後をじっと見ていると、クインが図面を持って彼の横にやってきた。「彼女が言ってることはよくわからないな」彼は図面を抱えて、顔をしかめながら言った。

「怒ったのかい?」ドンブロジオは言った。「気にするなよ、彼女は欲求不満の素人画家なんだ。そういうのってあるだろ。一日中やることがない主婦は退屈するんだよ」しかしふとした瞬間、彼は妻を悪く言うことに罪悪感を覚えた。「彼女は有能だ」彼はつぶやいた。「彼女の作品を見るといい。サウサリートのレストランで展示会をやったことがあるんだ」彼女は本当にキャリアを積んでいたかもしれない、と彼は思った。「でも彼女は結婚することを決めたんだ」彼は言った。「その代わりにね。多くの女性と同じように」

 彼はまだぼんやりとしたまま、自分のデスクに戻り、席に着いて仕事を再開する準備をした。二百ドル…。

 彼は長いこと仕事ができてないことに気がついた。

 その日の午後五時半、彼は寒いガレージに立ち、架上の赤いアルファロメオを見つめていた。

 もしこれが高くついたらどうしよう? 彼は自問した。さらに濾過管だ。整備士はいなかった。アルファのどこを直したのか、何がまだ必要なのか、ドンブロジオに伝える機会がなかったのだ。

 チャーリーが六時までに終わらせられなかったら? 彼は自分に問いかけた。彼はポケットに手を入れ、板張りの床をぶらぶら歩いた。彼が注文しなければならない部品があったとしたら? これをどうすりゃいいんだ? どうやって家に帰ればいいんだ?

 この誰もいない寒い車庫の中に立っているのは初めてではなかった。仕事終わりに、寒さに震えながら車をみつめ、いくらかかるんだろうと思案する。そして車が帰ってくることだけを望み、費用のことは忘れ、帰路に戻れるようただ祈るのだ。

 洗面所から整備士が現れた。彼は背が高く痩せた黒人で、ドンブロジオの車を長年修理してきた。ドンブロジオは無言で彼を見つめた。

「終わったよ」チャック・ハルピンが言った。

 ドンブロジオは、心の中で重荷がすっと軽くなるのを感じた。「これは驚いた」彼は言った。「すばらしい。どこが悪かったんだい?」

「汚れたプラグだけだ」チャックはぼろきれで手を拭きながら言った。ジャッキのそばにひざまずき、車を床に下ろし始めた。

「頼りになるな」ドンブロジオが言った。

 チャックは言った。「いつかトーションレンチをやるから、自分で商売をしろ」しかし彼はドンブロジオのその言葉を聞いて、明らかに喜んでいた。「私はいつでも君のために車を用意するよ」彼は言った。「ほとんど、いつでもね」

 別の整備士がやってきた。彼は言った。「チャーリーはサウスサンフランシスコまで行って、君のためにプラグを取ってきたんだ」彼はチャック・ハルピンの所有する四十九年型キャデラックを指差した。ギアを入れて斜道に駐車していた。「ついさっき戻ってきたばかりだよ」もう一人の整備士は言った。

 チャック・ハルピンは言った。「バスでプラグを送ってもらうこともできたが、明日にならないと着かないだろ」ドンブロジオが話そうとすると、彼はさえぎった。「請求書に書いてあるから、心配ない」彼は鉛筆で請求書を作り始めた。

 しばらくしてドンブロジオは言った。「聞いてくれ。君にお願いがあるんだ。いいかい?」

 チャック・ハルピンは彼をじっと見た。

「家に来て夕食なんてどうだい?」ドンブロジオは言った。彼は感情が高ぶって続けた。「往復とも私が運転するよ。望むならアルファは君が運転してもいい。この前のこと覚えてるかい? いつかひと走りしたいと言っていたよな」

 ハルピンはゆっくりと言った。「運転したことがある」

「この辺りなら」

 ハルピンは鉛筆で無造作に引っ掻いた。「奥さんは何て言うかな? 結婚しているんだろう?」

「電話してみるよ」彼は答えた。ハルピンの横を通り過ぎ、彼はガレージのオフィスのドアを開けた。「OK? 決まりかい?」

 ハルピンは低い声で言った。「もし、本当にいいのなら」

「いいとも」ドンブロジオは言った。ドアを閉めると、彼は電話の前に座り、受話器を上げてダイヤルした。

 もちろんシェリーはまだ家におらず、ドリーと一緒に帰っている途中だった。しかしそんなことはどうでもよい。少なくともこの瞬間の彼にとってはどうでもいいことだった。実際、彼は心の奥底で、彼女の驚きを楽しみにしていた。もし彼女が気に入らなければ最悪だ、と彼は思った。彼女は我慢できる。行儀よく振る舞え、彼は思った。こういう社会的な状況に対応することを学ぶべきだ。ちゃんとしたホストなら、当然誰にでも社交的に接することができるはずだ。

 事務所を出てきたハルピンは深く考え込んでいた。そして彼は頭を上げて言った。「いいか、ウォルト。君の住んでいる町には黒人はいないのか?」

「知らない」彼は言った。しかし彼は知っていた。一人もいなかった。

 ハルピンは言った。「資産価値を下げたくないんだ」彼が微笑むと、ドンブロジオも微笑み返した。「そうだ、もう暗くなってる」彼は言った。「日が暮れるまでに着かないよ」

 ドンブロジオは彼の背中を叩いた。彼はその手の下で痩せた背中がたじろぐのを感じた。「神経質になることはないよ」彼は言った。「そんなことはもう過去のことだ。例えば、野球のクラブチームを見てみろよ。ジャイアンツのウィリー・メイズや、あの新しい一塁手、それにサム・ジョーンズ、その他もろもろだ」

 整備士はドンブロジオが妻に連絡したかどうかは聞かなかったが、どうやらそうしたと思ったようだ。今、彼は作業着を脱いでガレージを出る準備を始めた。彼の動作は遅々として進まず、作業服のボタンをはずすのに時間がかかった。ドンブロジオはアルファに座り、じっと待っていた。

(第3章へ続く)