In Milton Lumky Territory
フィリップ・K・ディック

試訳です。誤訳・拙訳ご容赦。
第1章 | 第2章

作者まえがき

 この本は、実はとてもおかしな本で、良い本でもある。おかしな出来事が生き生きとした実在の人物に降りかかるという点において。結末はハッピーエンドだ。著者はこれ以上何を語ることができるだろうか? これ以上何を与えることができるだろうか?

第1章

 夕暮れ時、アイダホ州モンタリオの人通りの少ない通りに、湖からの刺激臭のある空気が吹きつけた。その空気と一緒に、鋭い羽を持つ黄色いアブの群れが現れ、走行中の車のフロントガラスにぶつかった。運転手はワイパーでそれを払いのけようとする。街灯がヒル・ストリートを照らすころには、店は閉まりはじめ、町の端に一軒ずつあるドラッグストアだけが営業を続けていた。ラグジュアリー映画館も六時半にならないと開かない。いくつかあるカフェも町の一部とは言えない。開店していようと閉店していようと、ヒル・ストリートを利用する国道九十五号線に属しているのだ。

 十四本並んだ線路の一番北側を、警笛を鳴らし、がたがた音を立て滑るようにユニオン・パシフィックの寝台列車が現れた。ポートランド発ボイシ行きだ。その列車は止まらなかったが、ヒル・ストリートの踏切でかなり速度を落とした。線路沿いのレンガ造りの倉庫に囲まれて、この速度の郵便車両は薄汚れた緑色の金属製の建物のように見えた。ほとんど動きもなくドアが開き、縞模様の制服を着た二人の鉄道員が両手をぶら下げたまま身を乗り出した。キルトの織物にくるまって寒さをしのいでいる中年の女が歩道から進み出て、手際よく数通の手紙を鉄道員の一人に手渡した。

 踏切の信号が大きく鳴り響き、赤信号が点灯した。列車の最後の一両が見えなくなったあともしばらく続いた。

 ハゴピアン氏は、ドラッグストアのランチカウンターで、小さなハンバーグとサヤインゲンの缶詰を食べながら、入口の棚からとってきた「コンフィデンシャル」を読んでいた。今、六時になっても彼を悩ます客はいない。彼は外の通りが見えるように座った。もし誰かが来たら、食事を中断して紙ナプキンで口と手を拭くつもりだった。

 ずっと遠くから、少年がくるくる回りながら頭を上げて後ろ向きに走ってきた。しっぽのついたクロケット帽をかぶっていた。少年は回りながら通りを横切った。ハゴピアン氏は彼がドラッグストアの中に入ってきたことに気がついた。

 少年はポケットに手を入れ、硬くぎこちない動きで店に足を踏み入れ、キャンディーバーのところへ行った。「三個で二十五セント」の看板の下にいろんな種類が混ざっていた。ハゴピアン氏は食べながら読書を続けていた。少年は箱から、ミルクダッド、M&Mチョコレート、ハーシーバーをやっと選んだ。

「フレッド」ハゴピアン氏は呼んだ。

 息子のフレッドは、奥の部屋からカーテンを押しのけて出てきて少年を待った。

 七時になってハゴピアン氏は息子のフレッドに言った。「もう帰ったほうがいい。今夜はもう二人の時間を割くほどのことはないだろう」彼は考えるといらいらした。今夜はもう誰も見に来ないし何も買わないと。

「もうしばらくここにいるよ」フレッドは言った。「どうせやることはないんだし」

 電話が鳴った。パイン・ストリートのド・ルージュ夫人からで、処方薬を届けてほしいということだった。ハゴピアン氏は本を取り出し、その番号を調べると、それはド・ルージュ夫人の鎮痛剤であることがわかった。そこで彼は、フレッドが八時までに持っていく、と彼女に告げた。

 コデイン*1のカプセルを作っていると、店のドアが開きシングルのスーツにネクタイでおしゃれをした若い男が入ってきた。薄茶色の骨ばった鼻に、短く刈り込んだ髪、それでハゴピアンは彼に気がついた。さらにその笑顔、歯並びの良い白い歯。

「何かお探しですか?」フレッドは言った。

「今は見ているだけ」とその男は言った。ポケットに手を入れて、雑誌の棚に移動した。

 なぜ彼はしばらくここに来なかったのだろう、そうハゴピアン氏は心の中で思った。昔はよく来ていたのに、子供の頃から。ウィックリー相手に商売しているんだろうか? そう思うと老人は憤りがつのった。彼はド・ルージュ夫人の薬の調合を終えると、それを瓶に入れカウンターに歩いていった。

 この青年スキップ・スティーヴンスは「ライフ」を一冊をフレッドのところに持ってきて、ズボンのポケットをまさぐって小銭を捜しているところだった。

「他に何かありますか?」フレッドは言った。

 ハゴピアン氏はスキップ・スティーヴンスに話しかけようとしたが、その時スキップはフレッドの方に寄り、小さな声で言った。「そう、トロジャン*2が欲しいんだけど」そこでハゴピアン氏は微妙に背を向け、忙しいそぶりを見せた。その隙にフレッドがコンドームのパッケージを包装し、レジを打った。

「ありがとうございました」とフレッドはいつも避妊具を売るときに使うビジネスライクな口調で言った。カウンターを出るとき、彼は父に向かってウインクした。

 スキップは雑誌を小脇に抱え、とてもゆっくりと雑誌や棚に目をやりながら、威圧感を感じさせないように入口の方へ向かった。ハゴピアン氏は彼に追いつき言った。「久しぶり」憤りのため声を荒げた。「家族は元気かい?」

「みんな元気です」スキップは言った。「数か月会ってませんが。僕は今リノに住んでいます。そこで仕事してるんです」

「ああ」ハゴピアン氏は彼を信じていない様子で言った。「なるほどね」

 フレッドは首を傾げて聞いていた。

「スキップ・スティーヴンスだ、覚えているかい」とハゴピアン氏は息子に言った。

「ああ、そうだ」フレッドは言った。「そうなんだ、分からなかったよ」彼はスキップに向かってうなずいた。「もう何ヶ月も会ってなかった」

「今、リノにいるんです」とスキップは説明した。「四月以降モンタリオに来たのはこれが初めてです」

「なぜ会えないのか不思議だったんだよ」フレッドが言った。

 ハゴピアン氏はスキップにたずねた。「君の弟はまだ東部の学校にいるのかい?」

「いいえ」スキップは答えた。「彼はもう学校を出て、結婚しています」

 この青年はリノで暮らしているのではない、とハゴピアン氏は思った。この子はリノに住んでいるのではない、リノに住んでいないことを恥じているのだ。スキップは、明らかに落ち着かない様子で、足を交互に動かしていた。彼は明らかに帰りたがっていた。

「どんな仕事をしているんだい?」フレッドが言った。

 スキップは言った「バイヤーです」

「どんなバイヤー?」

「CBB向け」と彼は言った。

「テレビ局の?」とハゴピアン氏が言った。

「消費者購買案内所です」とスキップは言った。

「何だい、そりゃ?」

 スキップが言った。「デパートみたいなものです。リノとスパークスの間の四十号線沿いに新しくできたんです」

 不思議そうな顔をしてフレッドは言った。「それ知ってるよ。誰かがここで教えてくれたんだ」父親に向かって言った。「ディスカウントストアの一つだよ」

 老人は最初理解できなかった。そして、ディスカウントストアについて聞いたことを思い出した。「小売店を廃業に追い込みたいのか」大声でスキップに言った。

 スキップは真っ赤になりながら言った。「スーパーマーケットと同じです。大量に仕入れて、その分を消費者に還元する。ヘンリー・フォードもそうやって大量に生産したんです」

「アメリカ流じゃない」ハゴピアン氏が言った。

「いいえ、確かにそうです」スキップは言った。「間接費や中間マージンを省くことができるから、生活水準が高くなるんです」

 ハゴピアン氏はカウンターに戻って、息子に向かって言った。「ド・ルージュ夫人が痛み止めを欲しがっているんだ」彼は瓶を差し出し、フレッドはそれを受け取った。「八時までに行くと言ってある」

 彼はこれ以上スキップ・スティーヴンスと話をする気はなかった。中国や日本との競争は、それだけで十分ひどいものだった。彼にとっては大きな新しいディスカウントストアなんて最悪だ。彼らはアメリカ流だと言い張ってる。ネオンサインがあり、広告を出し、駐車場があり、それが何であるかを知らなければ、スーパーマーケットのように見えるのだ。誰が経営しているのか知らない。ディスカウントストアのオーナーを誰も見たことがない。実際、彼自身ディスカウントストアを見たことがない。

「あなたのビジネスに割り込むわけではありません」スキップは、フレッドがミセス・ド・ルージュの荷物を包んでいる後ろからついてきて言った。「家具のような大きなものでも、五百マイルも走って買い物に来る人はいませんよ」

 ハゴピアン氏は、息子が包装している間にタグを作った。

 スキップは言った。「どうせ大きな町にしかありません。この町はそれほど大きくない。ボイシならあるかもしれない」

 フレッドも父親も何も言わなかった。フレッドはコートを着て父親からタグをもらうと、ドラッグストアを後にした。

 老人は昼間に配達されたさまざまな品物を仕分けすることに集中した。やがて、スキップ・スティーヴンスの後ろでドアが閉まった。

* * * * *

 モンタリオの明かりのない住宅街を運転しながら、砂利で舗装された道の上で、ブルース・スティーヴンスはこれまで何度も会っているハゴピアン老人のことを思い出していた。何年か前、その老人は彼をコミック売場からドラッグストアの正面入口へ追い出した。ハゴピアンは、何ヵ月も黙って怒りに震えていたが、子供たちはミネラルオイルの瓶の棚の後ろに座り込んで、ティップトップコミックスやキングコミックスを読みふけり、めったに何も買わなかった。そして彼は決心して、次に登場した最初の子供を追い出したのだ。その子はブルース・スティーヴンス、当時はスキップ・スティーヴンスと呼ばれていた。丸いそばかすのある明るい顔と赤っぽい髪が特徴だったからだ。老人は今でも彼を「スキップ」と呼んでいる。ブルースは、家々を眺めながら、なんてひどい世の中なんだろうと思っていた。あの時、僕は彼を悲しませた。そして彼はまだ悲しんでいる。私がトロジャンの箱を買ったとき、彼が警察を呼ばなかったのが不思議なくらいだ。

 しかし、リノのディスカウントストアで働く彼の考えに対する老人の憤慨は、彼を悩ませるものではなかった。というのも、第二次世界大戦後、初めてスーパーマーケットができた時、小売店の人たちは同じように思ったことを彼は知っているからだ。そしてその敵意が彼を喜ばせた面もあった。それは、人々がディスカウントストアから買い始めている、あるいは、少なくともディスカウントストアを意識し始めていることの証明であった。

 それはやって来ている、と彼はもう一度自分に言い聞かせた。あと十年もすれば、ある日剃刀を買って、次の日に石鹸を買おうなんて誰も思わなくなるだろう。すべての買い物を、あらゆるものが手に入る場所で、週に一度で済ませるようになるだろう。レコードから車にいたるまで。

 しかし、その時彼はリノに戻って避妊具を買ったのではなく、この小さなドラッグストアで正規の値段で買ったのだと思い当たった。実は彼は自分が働いているディスカウントストアに避妊具が置いてあるかどうかさえ知らなかった。

 そして雑誌もだ、と彼は気づいた。実際の意図を隠すために。避妊具を買うといつも恥ずかしい思いをした。カウンターにいる店員はいつも彼に嫌な思いをさせた。小さな金属製の缶を落として、人々がちらりと見るようにした。あるいは店中に聞こえる声で「お尋ねの品はどちらですか、トロジャンと…」と他のブランド名を呼んでいた。シークとかいうブランドだ。十九歳のとき、避妊具を持ち歩くようになった最初の年から、彼はトロジャンにこだわっていた。それがアメリカだ、と彼は自分に言い聞かせた。ブランドで買え。自分たちの製品を知れ。

 リノからの旅はボイシで終わる予定だったが、地元のボイシを通り過ぎ、一年前に付き合っていた女の子のところに寄っていくことにした。明日の朝に帰ればいい。ボイシはネバダ州から95号線を北東に十五マイルほどしかない。もしことがうまくいかなくても、今夜中に帰れる。

 彼は二十四歳であった。CBBでの仕事が好きだった。月給は三百ドル程度と高くはなかったが、五十五年式のメルセデスで道に出て、人と会って交渉し、発見のための内なる鋭い衝動でいろいろな店を詮索する機会を与えてくれた。それに上司のエド・フォン・シャーフが好きだった。彼はロナルド・コールマン*3風の立派な黒い口ひげを生やし、第二次世界大戦では海兵隊の軍曹として従軍していた。ブルースが八歳の時である。

 彼はリノのアパートで一人暮らしをするのが好きだった。両親の元を離れ、根っからの農業の町を離れられるのだ。ジャガイモの産地であるこの州のハイウェイにはこう書かれている。「グベリフ*4にはなるな」これは、放火犯になるな、という意味で、ここを走るといつも彼は激怒した。リノからは、シエラネバダ山脈を越えてカリフォルニアに行くのもの容易だし、反対方向のソルトレイクシティにもその気があれば行ける。ネバダ州は空気がきれいだ。モンタリオに流れ込む濃い不快な霧はアブを運んできて、彼はこれまでずっと踏みつけたり吸い込んだりしたが、それがない。

 今、ボンネットやバンパー、フェンダー、フロントガラスに、そのアブが何百匹もつぶれて死んでいる。ラジエーターを汚している。薄い毛で覆われたアブが彼の視界の邪魔をして、ペグの家がなかなか見つからなかった。

 広い芝生とポーチ、そして木を見て、ようやく彼はその家を見つけた。中には明かりが灯っていた。車も何台か近くに止まっていた。

 車を止め、ベルを鳴らすためにポーチに上がると、家の中から音楽と人の声が聞こえてきた。間違いない、と彼は自分に言い聞かせ、ベルを鳴らした。

 ドアが開いた。ペグは彼に気づき、息を呑み、両手を上げてから脇をすり抜け、彼を家の中に引き入れた。「驚いた! 思ってもみなかったわ!」

 リビングでは、何人もの人が飲み物を飲みながらジョニー・レイのレコードに耳を傾けていた。男三、四人と女も同じくらい。

「電話すればよかったかな」彼は言った。

「いいえ」彼女は言った。「大歓迎よ」彼女の顔はきらきらと輝き、小さくて丸く、なめらかだった。オレンジ色のブラウスに濃い色のスカート、髪はふわりとしていて柔らかそうだった。彼女がとても可愛く見え、キスをしたいと思った。しかし、何人かの人が首を伸ばして、笑みを浮かべとりあえず歓迎してくれていたので、彼はそうしなかった。

「今、車で来たの?」彼女がたずねた。

「そうだよ」彼は言った。「今朝七時頃出発したんだ。楽しかったよ。ずっと七十マイルぐらいで走った」

「本当にお疲れなのね。夕食は食べたの?」

「五時頃に少し休憩した」彼は言った。「運転中はあまり腹が空かないんだ」

「今は何もいらないの?」彼女は彼をホールへ案内し、リビングを通り過ぎ、キッチンへ入った。タイルの水切り板の上に、氷の入ったボウル、ジンジャーエールとビターズの瓶、レモンの皮と開けてない安いバーボンの瓶が置かれていた。冷蔵庫を開けると彼女は言った。「何か温かいものを用意するわ。運転中はサンドイッチとシェイクだけなんでしょ。そうだったわよね」彼女は料理の皿をテーブルに運び始めた。

「実は」彼は言った。「聞いて」彼は彼女を止めた「もう帰らないと。ボイシに行かなければならない。明日ボイシで仕事があるんだ」

 彼女は立ち止まり言った。「仕事はどう?」

「悪くないよ」彼は答えた。

 ペグは言った。「こっちの部屋にきて、みんなに紹介するわ」

「疲れてるんだ」彼は言った。

「ちょっとだけよ。彼らはあなたが入ってくるのを見たのよ。立ち寄っただけの友達よ。ボイシで食事をしたのよ。中華料理よ。麺と鴨と豚焼きそばを食べたの。家まで送ってくれたわ」

「邪魔する気はないよ」

「邪魔者ぶってるだけよ。私に電話すればよかったのに」冷蔵庫を閉めると、彼女は両手を広げて彼の方に寄ってきて、彼に抱きしめてもらいキスをした。「私たちが一緒にいた時からどれだけ長い時間たってるか、わかってるでしょ。たぶんみんな追い出せるわ。どうせみんなすぐに帰ってしまうから。しばらくいて、明日の仕事の話を聞いて」

「いいや」彼は言った。しかし彼は彼女に導かれるまま廊下を歩き、リビングに戻った。彼女の言うとおりだった。前回からずいぶん時間がたっていたし、リノでの八、九ヶ月の間、彼はまだほかの女の子に出会ってないし、彼女のことを十分に知ることもできていなかった。本当に。だからその八、九ヶ月の間、彼は何もしていなかったのだ。今、彼女にキスをして、彼女の小さな湿った暖かい指が彼の手首を包むのを感じると、彼の欲求はつのった。単にそれが無いのと、彼の目の前にあって手に入るのでは大違いだ。

 一目見てブルースは、彼らがペグが勤めていたオフィスの事務員ぽいと分かった。彼らは薄っぺらいインドア派の見た目だったが、同時に彼が思うところのアイダホ・ルックでもあった。アイダホ・ルックとは、一種の鈍感さを意味する。聞いてから理解するまでの時間の経過、つまり測定可能な間隔だ。彼らの様子を見ていると、徐々に反応が推移するのが分かる。彼らは、ただ単純に理解できないだけなのだ。簡単なことでも熟考しなければならないし、難しいことは…まあ、難しいことはアイダホにはなかったし、これからもないだろう。だから問題ない。

「こちらブルース・スティーヴンスよ」ペグが彼らみんなに言った。「彼はリノから来たばかりで、一日中運転してたのよ」

 彼女が最後の一人を紹介する頃には、彼はもう最初の一人の名前を忘れてしまっていた。そして彼女が氷の入ったバーボンを彼に用意する頃には、彼は彼らの名前をすべて忘れてしまっていた。彼らは音楽を聴きに戻っていったので、何も変わらなかった。ロシアが月にいこうとしてるとか、人が住む惑星にいこうとしてるとか、そんな会話もした。彼は酒をもって、ペグにできるだけ近い席に座った。

 薄っぺらいインドア派の事務員たちはおしゃべりをしながら彼を無視する。彼はペグに目を向けたまま、不思議に思いながら酒を飲んでいた。そして彼がそうしている間に、家の一番奥のバスルームのドアが開き、女性が廊下からリビングに入ってきた。見たことのない女性だ。明らかに彼が来てからずっとそこにいたのだろう。見上げると、黒髪の年上の女性で、とても魅力的だった。首には白いスカーフを巻き、指輪のような大きなイヤリングをしていた。スカートを翻してソファの肘掛けに座った。彼女はサンダルを履いていて、素足だった。彼女は彼に微笑みかけた。

「今来たばかりです」彼は言った。

「ああ、スーザン」ペグが息を吹き返して言った。「スーザン、こちらブルース・スティーヴンス。ブルース、スーザン・フェインを紹介するわ」

 彼は挨拶した。

「こんにちは」スーザン・フェインは言った。それだけだった。首をかしげながら、まるで自分が部屋を出たときから続いていたかのように会話の輪に入っていった。おそらくそうだったのだろう。彼はポニーテールに結ばれた彼女の髪が左右に揺れる様を眺めていた。ロングスカートに、銅のようなバックルのついた幅の広い革のベルトをし、黒いセーターを着ていた。右肩には銀色のピンがついている。彼はそれを見て、メキシコのものだと判断した。サンダルもそうかもしれない。見れば見るほど彼女は魅力的に見えた。

 彼の耳元でペグは言った。「スーザンはメキシコシティから戻ってきたところよ。彼女はそこで離婚したの」

「そうなんだ」と彼はうなずいた。「驚いたよ」

 彼はグラスを持ち、それを調べているかのように、あるいはそう見えるように、彼女を見続けていた。彼女の手は力強く、有能そうなしぐさで、彼は彼女が何か手作業に就ていると推測した。彼女の黒いセーターの下にはブラジャーのストラップが見え、彼女が前かがみになると、スカートとセーターの間から背中が少し見えた。

 突然、彼女は振り向き、彼が自分を見ていることを意識した。彼女はじっと彼を見たので、彼は耐え切れず、彼女を見るのをやめ、視線は宙をさまよい、同時に頬が赤くなるのを感じた。そして、彼女はソファの人たちと話をするために戻っていった。

 ペグに彼は言った。「ミス、ミセス?」

「誰?」

「彼女さ」彼はグラスでスーザン・フェインをさしながら言った。

「離婚したって言ったよね」ペグが言った。

「そうだった」彼は言った。「今思い出したけど、そうだったね。彼女は何をしているんだい? どんな仕事?」

「タイプライターのレンタルサービスよ」ペグは言った。「タイピングやガリ版印刷もやってくれるの。私たちのために働いてくれるのよ」それは彼女を秘書として雇っている弁護士事務所のことだろう。

 スーザン・フェインは言った。「私のこと?」

「そう」ペグは言った。「ブルースはあなたが何をしているのか聞いてきたのよ」

「メキシコから帰ってきたばかりなんでしょう」ブルースは言った。

「ええ」スーザン・フェインは言った。「でもそれは仕事ではなかったわ」他の人はそれを面白がって笑った。「正確にはね」彼女は付け加えた。「あなたがどんな話を聞いてようとも」

 彼女はソファの肘掛けから飛び降りると、空のグラスを持ってキッチンへ行った。薄っぺらな事務員風の男が一人立ち上がり、彼女の後を追った。

 ブルースは酒をちびちび飲みながら考えた。彼女を知っている。前に彼女を見たことがある。

 彼は場所を思い出そうとした。

「コートをかけてあげようか?」ペグは彼に言った。

「ありがとう」彼は言った。彼はうわの空で酒を置き立ち上がり、コートのボタンを外した。彼女がコートを受け取りホールのクローゼットまで運ぶと、彼は彼女の後を追った。「あの人を知ってる気がする」彼は言った。

「本当?」ペグが言った。彼女はハンガーにコートをかけ、その間に、誰も予期せぬ、幾人かしか切り抜けられない出来事がおきた。コートのポケットからハゴピアン薬局の袋に入っていたトロジャンの箱がカーペットの上に落ちたのだ。

「これは何?」ペグはそう言って、身をかがめてそれを拾い上げた。「こんなに小さいのね」

 もちろんフレッド・ハゴピアンはこの箱を袋から簡単に取り出せるように包んで、誰にでも見えるようにしていた。ペグはそれを見て、奇妙で冷ややかな表情を浮かべた。彼女は何も言わずに箱を袋に戻し、袋をコートのポケットに戻した。クローゼットのドアを閉めると彼女は言った。「準備がいいのね」

 彼はこのままボイシまで運転していけばよかったと思った。

「あなたはいつもお気楽だった」ペグは言った。「ずっとそう、そうよね? つまり、いつでもいいのね」リビングに戻った彼女は、肩越しにこう言った。「あなたの投資を無駄にして欲しくないの」

「どんな投資?」ソファに座っているぼんやりした人影の一人がたずねた。

 彼もペグも何も言わなかった。そして今回は、彼は彼女の近くに座る苦労はない。確かに今その望みはない。彼は酒を飲みながら座り、どうやって帰ろうかと考えていた。

第2章

 その時すぐに出発する機会が訪れた。向かいのソファから小柄な禿頭の事務員が立ち上がり、バスで家に帰らなければならないと言い出したのだ。

 ブルースも立ち上がり言った。「送ってあげるよ。どうせボイシに行くからね」

 誰も文句を言わなかった。ペグはさようならとうなずくと、台所に姿を消した。彼とミューア氏は家を出た。

 ボイシに着いてからミューア氏の通りを見つけるのには時間がかかった。この男は自動車を運転しないので、方向がよくわからない。ブルースはやっとの思いで彼を降ろすと、再びハイウェイに入り、モーテルを探した。そしてまずまずの見た目のモーテルをやっと見つけたその時、ペグの家のクローゼットにコートをかけたままにしていたことに気がついた。恥ずかしさのあまり彼はそのことを忘れていた。

 取りに戻るべきか? と彼は自問した、

 やめるべきか?

 道端で立ち止まり時計を見た。九時過ぎだ。モンタリオに戻ったら九時半を過ぎるだろう。明日まで待った方がいいか? 彼はコートが必要だった。それなしでビジネスの約束に行くことはできない。

 彼は決心した。明日ペグは朝早くに出勤するだろう。もしペグに会えなかったら、二度とそのコートを見ることはないだろう。

 車のエンジンをかけ、彼はUターンして来た方向に戻った。

 彼女の家の近くに止まっていた車がなくなっていた。電気も消えていた。暗く閉ざされた家はさびれた感じになっていた。彼は小径を急いでポーチに行き、ベルを鳴らした。

 返事がない。

 彼はもう一度鳴らした。経験上、(一)モンタリオでも九時半には誰も寝ないし、(二)パーティーがこんなに早く解散するわけがない。みんなどこか別の家に行ってしまったのかもしれない。あるいはヒル・ストリートに行って、二度目の夕食をとるか、バーでビールを飲むか、神のみぞ知るだ。

 いずれにせよ彼のコートは家の中にあるのだ。ドアを開けようとすると鍵がかかっていた。そこで彼は見慣れた小径をまわり、門をくぐって裏手に向かった。洗濯室の窓の留め具が開いていたのを彼は覚えていた。箱を家に立てかけて何とか窓を開け、手から窓をくぐって洗濯室の床に倒れこんだ。

 一つの光が彼を導いた。バスルームの光だ。彼は廊下を進み、クローゼットまで行き、それを開けるとコートを見つけた。神様ありがとう、と彼は思った。彼はそれを着てリビングに入った。

 リビングにはタバコの臭いが漂っている。人がいなくなった、奇妙で寂しい空虚な場所…彼らのぬくもりと思い出の品々、灰皿の中のくしゃくしゃのタバコの箱、眼鏡、サイドテーブルの上のイヤリング。彼らは煙の中に消えてしまったかのようだ。まるで妖精のように。妖精は(たとえば自分のような)人間が背を向ければ、すぐにでも戻ってこようとする。立って聞いていると、ブーンと音が聞こえた。

 レコードプレーヤーの電源が入ったままになっている。蓋を開けてみると、小さな赤いランプが光っている。つまり、彼らは長く留守にするつもりはなかったか、あるいは思いつきで飛び出したのだ。

 見捨てられた帆船の謎みたいだ、と思いながら彼は台所にふらりと立ち寄った。テーブルの上には料理が…水切り台の上にはもう半分しか残っていないバーボンの瓶があった。今は溶けてしまった氷の入ったボウル。レモンの皮。さらに空のグラス。そしてシンクの中には食器。

 何を待っているのだろう、と彼は自分に問いかけた。コートは持っている。なぜ帰らないんだ?

 くそっ、と彼は思った。ハゴピアンでの買い物の件がなければ、今夜はここに泊まっていたかもしれないのに。

 ポケットに深く手を入れて、キッチンと廊下をまたいでで立っていると、誰かのため息が聞こえた。この家の離れた別の部屋で、誰かが動き回ってため息をついているのだ。

 彼は怖くなった。

 気をつけたほうがいい、彼は思った。音を立てずに廊下を戻り、リビングから玄関のドアまで歩いた。ドアの前で彼は立ち止まり、ノブに手をかけて、少し安心した様子で耳をすませた。

 音はしない。

 これは怯えるほどのことではないようだ。彼はドアを開け、ためらい、そしてドアを少し開けたまま戻ってきた。家の中はとても暗かったので、自分の姿も見えないかった。少なくとも、あまりよくは見えなかった。せいぜい輪郭が見える程度で、彼の姿はあまりにあいまいで、誰だかわからない。これには何かわくわくするものがあった。ほとんど子供の遊びのようなものだ。昔の記憶…。もう一度立ち止まり、頭を上げて手を耳の後ろに回し、息を止めて耳をすませた。

 寝室とおぼしきところから、はっきりとした息遣いが聞こえてくる。ドアは閉まっていない。震えながら期待に胸を膨らませ、一歩ずつ近づき、ドアに頭を突っ込んで部屋の中を覗き込んだ。ベッド、鏡台、ランプが見える程度に明るかった。

 ベッドにはスーザン・フェインが寝ていた。タバコを吸いながら、片方の腕を頭の下に置き、天井を見つめていた。彼女はサンダルを脱ぎ飛ばしていた。ベッドの足元には、他の客のコートやバッグが積み上げられていた。その時彼女は彼の存在に気づき、体を起こして言った。「もう戻ってきたの?」

「いや」と彼はつぶやいた。

 彼女は彼を見つめた。そして彼女は言った、「ずっと前に帰ったと思ってた」

「コートを忘れたんだ」彼は愚かにも言った。

「着てるじゃない」

「今着たんだよ」彼は言った。少しおいて言った、「みんなどこへ行ったんだい?」

「お酒を割る飲み物を買いに行ったわ」彼女は言った。

「僕は窓から入ったんだ」彼は言った。「玄関は鍵がかかっていたんでね」

「あの音はそういうことだったのね」彼女は言った。「ベランダにいた彼らがドアを開けたのだと思ったわ。なぜ誰の話も聞こえないのか不思議だった。居眠りでもしていたのね。どうも私はウイルスに感染しているみたい。怖いのは、それがメキシコでもらってきたみたいなの。帰ってきてからずっと吐き気が続いている。何も飲めないし、飲んでもすぐ吐いてしまうのよ。それに時々、体がだるくなりめまいがする。横になるしかないのよ」

「ああ」彼は言った。

 スーザン・フェインは言った。「現地では葉物野菜も果物も食べてはいけないと警告されたわ。沸騰させてない水さえも。でもレストランでコップの水を沸騰させてくれとは言えないわ。そうでしょう? でてくる食器も沸騰させられないし」

「アジア風邪の可能性は?」彼は尋ねた。

「その可能性はあるわ」彼女は言った。「繰り返しおなかが痛くなるの」彼女はベルトを外し、今度は平らな腰をさすった。そして彼女は起き上がってタバコを消し、ベッドから立ち上がった。「すぐに戻ってくるはずよ」彼女はそう言って、サンダルに足を差し入れた。「どこかに寄り道してなければね。コーヒーを淹れようと思うんだけど、あなたもどう?」彼女は彼の横を通り過ぎた。彼女の動作は機敏だったが、明らかに疲れている様子だ。そして部屋を出て行った。次に彼が彼女を見たとき、彼女は台所の電気をつけ、つま先立ちで流しの上の食器棚をのぞいていた。そこで彼女はインスタントコーヒーの瓶を見つけた。

「僕はいらないよ」と彼は言いながらキッチンテーブルのあたりをうろうろしていた。

「ウォルト、私の夫、つまり私の前の夫は、夏にマサトランにいたとき、私たちのどちらかがアメーバ赤痢にかかるんじゃと心配してたわ。赤痢は深刻よ。命にかかわることもある。行ったことある?」

「ない」彼は言った。

「いつか行くべきよ」

 彼の心にはメキシコに対する勝手な印象がある。ロサンゼルスから車で国境を越えてティアファナへ行った男二人組と話をしたことがあった。彼らの話を聞いてイメージが出来上がったのだ。水着姿の女の子、派手なレストランで四十セントのTボーンステーキ、一泊二ドルの最高級ホテルの部屋、メイドサービス、ウィスキーには税金がかからない、欲しいものは何でもその場で手に入る。ガソリン代は一ガロン二十セントで、仕事でたくさん使う彼には特に魅力的だった。また衣料品店では最高級の英国製のウールが格安で売られていた。

 もちろん彼女が言うように食べるものには気をつけなければならないが、地元民の食べ物にさえ気をつければ大丈夫なのだ。

 ストーブの前では、スーザン・フェインがコーヒーを入れるためのお湯を沸かしている。そして彼は言った。「遅れてもやらないよりはまし」

「なんですって?」彼女は言った。

「落ち着いて湯沸かし*5」彼は言った。

「これはコーヒー用よ」彼女は真剣な声で言った。

「わかってるよ」彼は言った。「ただの冗談さ。具合の悪い人をからかったらいけないと思うから」

 彼女はテーブルに座り両腕をテーブルの上に置き、そしてその腕の上に頭を置いた。「あなたはこの町に住んでいるの?」彼女は尋ねた。

「いや」彼は言った。「リノから来たんだ」

「私が何をしようとしてるかわかる?」彼女は言った。「コーヒーにコニャックを入れるわ。食器棚の上のほうに瓶があったの。取ってくれる? たまたま通った人に見つけられないように、後ろに隠してあるのよ」

 彼は喜んでコニャックの瓶を取ってやった。まだ未開封だ。彼女はラベルを読み、ボトルを光にかざしながら、じっくりと観察した。ストーブの上ではお湯が沸いている。

「よさそうね」と彼女は言った。「ペグは気にしないわ。たぶん誰かがくれたのよ。どうしたっておそらく吐いちゃうけどね」彼女は彼にそれを手渡した。開けてくれということだ。

 その瓶はコルクで栓がしてあり、開け方に悩む。瓶を膝ではさみ動物のように身をかがめ、ナイフを栓抜きにして力いっぱい引っ張らなければならない。コルクは徐々に上に上がっていき、最後には瓶から完全に出て一気にふくらんだ。彼はそれを気持ち悪く思い、栓抜きだけを持ってコルクに触れないように立ちつくした。

 その間スーザンは品定めするように見ていた。そして彼がコルクを抜いたところで彼女はカップに熱湯を注ぎ、インスタントコーヒーをかき混ぜ、コニャックを少し加えた。

「どうぞ、飲んで」彼女は言った。

「いや、結構」彼はブランデー、特にフランスのブランデーには興味がなかった。彼は片側に立ち、袖を整えた。袖は引っ張られてしわくちゃになっていたのだ。

「もういい年でしょう?」

「もちろん」彼は不満げに言った。「僕には甘すぎるんだ。スコッチがいい」

 うなずくと彼女はカフェ・ロイヤルとともに腰を下ろした。一口飲むと、彼女はそれを脇に押しやり震えだした。「飲めないわ」彼女は言った。

「医者に診てもらったほうがいい」彼は言った。「重病かもしれない」

「医者は嫌いよ」と彼女は言った。「重病じゃないのはわかってる。ただ精神的なものよ。結婚がダメになって 不安でいっぱいなのよ。ウォルトにとても依存してた。それも問題だった。彼と一緒にいるとまるで子供のようだった。すべての決断を彼に任せてしまって、それがいけなかったんだわ。何か問題が起きれば彼を責めた。悪循環ね。そしてついに私が自由になって、自分自身で生きていかなければならないと、二人で気づいたの。私は結婚する準備ができてなかったんだわ。結婚の準備をする前にある段階まで到達しないといけない。私はそうじゃなかった。ただそう思っていただけなの」

「結婚して何年?」彼は聞いた。

「二年よ」

「それは長いね」

「そんなに長くないわ」彼女は言った「まだ知り合って間もなかった。あなたは結婚しているの、ミスター…」彼の名前は出てこなかった。

「スティーブンス」彼は言った。「ブルース」

「スティーブンスさん?」彼女は言った。

「いや」彼は言った。「少しは考えたこともあるけど、完全に確信が持てるまで待ちたいんだ。そんな重大なことで失敗したくないんだ」

「ペグ・グーガーと付き合ってたんでしょ?」

「しばらくは」彼は言った。「去年かそこらには」

「ここに住んでたの?」

「そう」彼は曖昧に言った。リノから来たというごまかしを台無しにしたくなかった。

「ペグに会いに来たの?」

「違う」彼は言った。「仕事でこっちに来たんだ」そして彼は消費者購買案内所のことを、自分が何をしているか、それが何なのかを話した。平均二十五パーセントの値引きで商品を売っていること、広告を出す必要がないこと、お飾りの窓もなく維持する備品もほとんどないため経費がかからないこと、工場のように広大で長い平屋の建物がひとつあるだけで、カウンターがあり店員はネクタイする必要さえないないことを彼女に話した。ディスカウントストアは全商品を揃えることはなく、十分安く手に入るものだけを揃えるのだ、と彼は説明した。バイヤーが手に入れられるものだけが、入れ替わっていくのだ。

 そして今は、彼が言うには、ボイシまで車で行ってカーワックスの問屋を物色しているところだという。

 それが彼女の興味を引いたようだ。「カーワックス?」彼女は言った。「本当に? カーワックスのために五百マイルも走るの?」

「いいものなんだ」彼は言った。「ペーストワックスさ」彼は説明した。ペーストワックスは塗るのが大変なので、今では売れない。今は簡単に塗れてこすらずに拭き取れる新しいシリケートも出ている。しかし缶入りのペーストワックスほど仕上がりの良いものはない。瓶入りはだめだ。車のオーナーはみんな心の底では知ってるし、そう思ってる。そこで一缶九十セントの安売りをしたら、このワックスは売れだした。通常価格から一ドルでも安くすませるために、土曜日を丸々使って車にワックスを塗りたくる人もいた。

 彼女は熱心に聞いてくれた。「それであなたはいくら払うの?」

「まとめて発注するんだよ」彼は言った。彼の上司は一缶四十セントから始めてせいぜい六十セントまでと許可していた。缶が何本あるのかも疑問だった。もちろんワックスが古すぎたり乾いていたりしていれば、取引は成立しない。

「それでそんなふうにあちこちで商品を探しているのね?」スーザンが言った。

「どこにでもね。東はデンバーから西海岸、LAまでね」。彼はその壮大さに浸った。

「すごく面白いわ」彼女は言った。「そして、あなたが商品をどこで仕入れているのか誰も知らないのね。普通の小売業者は怒ってあなたのところにやってくるわ、仕入先が自分たちより安い値段で売っているのではないか知りたくて」

「その通り」彼は言った。「でも僕たちは仕入先を絶対に明かさない」彼は、通常なら伏せておくような情報を、自分から話していることに気がついた。「もちろん、地元の卸し商から直接仕入れることもある、値段次第でね。また、メーカーに直接行って――でかいトラックがあるんだ――卸売業者と同じ値段かそれ以下で買ってくるのもいい手だ。また小売店が倒産したときにもその手を使う。動かない在庫品とか古い在庫のときもね」

 テーブルの上で、スーザン・フェインはコーヒーとブランデーのカップをゆっくりとかき混ぜて、さらに遅く混ぜた。彼は自分の話が悪い方向に影響したことに気づいた。「こんな取引がずっと続いているのね」彼女はつぶやいた。「どうりでどこにも無いわけだわ」

「あなたは小売販売業ではないんだろう」彼は言った。「そうなのかい?」

「ええ」彼女は物憂げに言った。「タイプライターのインクリボンとカーボン紙を時々売るくらいかな」

 彼女は立ち上がり、ふらふらと彼の方を向いて立ち、胸のすぐ下で腕組みをした。ベルトを外したままなので、スカートの上端が合わせ目から離れ、二枚の布の端がつながっておらず、ゆるく垂れ下がっている。彼女は細い現代的なウェストなので、ベルトを締めないと何かが少しずつずれていきそうだった。しかし彼女は自分では意識せず、顔をしかめて内にこもった表情を浮かべていた。口紅をこすって落としたのか、唇は淡黄色で放射状の線が無数にあり、口元は乾いていた。肌も乾いてはいたが、なめらかで張りがあった。真っ黒な髪にもかかわらず肌は明るい色だ。そして瞳は青かった。髪をもっとよく見ると、根元が赤茶色になっていた。どうやら染めたらしい。だから艶がないのだ。

 そしてもう一度彼は思った、彼女を知っていると。以前に会ったことがあり、話したことがある。彼女は僕になじみがある。彼女の声、癖、言葉の選び方。特に彼女の言葉の選び方はそうだ。僕は彼女の話を聞くのに慣れている。世界中の誰よりも、僕にとってはよく知ってる声なのだ。

 そうこう考えているうちに、家の前から大きな音の波が押し寄せてきた。ドアが勢いよく開き、人々は屋内に押し入り、電気をつけ、おしゃべりをした。ペグと事務員風の仲間たちがジンジャーエールを持って帰ってきたのだ。

 目を伏せながら、まるで人の声が聞こえないかのようにスーザンは言った。「私はこのことにとても興味があるの。興味を持たないとだめなのよ。これはいわば商売の新しい流行なのね。実際…」彼女が振り返ると、紙袋を肩にかけたペグが現れた。

「何しに戻ってきたの?」彼を見て驚いたペグが言った。「帰ったと思ってたわ」彼の横を通り過ぎた彼女は水切り台の上に袋を置いた。袋はカチャカチャと音を立てた。

「コートを忘れたんだ」彼は言った。

「どうやって入ったの? 鍵がかかっていたのに」

 スーザンは言った。「私が入れたのよ」

「病気で横になっているはずなのに」ペグがスーザンに言った。彼女はキッチンを出て、二人を残してリビングに戻った。

「彼女はあなたに怒っているの?」スーザンは言った。「あなたが出て行った後、彼女は変だったわ。あなたはとても急いで出て行った。リノに戻る前にどれだけここにいるつもりだったの?」

「僕の考え次第だ」彼は言った。「せいぜい一日だよ」

「いつかまたあなたと話をしたいわ」スーザンはシンクの端にもたれながら言った。

「僕もだよ」彼は言った。「聞いて、僕は君を知っている気がするよ。でも思い出せないんだ」

「私もあなたを知っているような気がする」彼女は言った。

「もちろん」彼は言った。「みんないつもそう言うさ」

「『魅惑の宵*6』みたいね」彼女は微笑んだ。「最愛の人を瞬時に見分ける」

 彼は脈が速くなった

「聞いて」スーザンは言った。「あなたの売り買いの話を聞いていたら気持ちが楽になった。おなかが唸らなくなったわ」

「よかった」彼は言った。売り買いの話なんて心の奥底にしまい込んでしまった。残りの話と彼女のイメージが合わなかったからだ。

「たぶんそれが私に必要なことなのね」彼女は言った。「メキシコシティから戻ってから、すべてがごちゃごちゃになってしまった。実際には一ヶ月くらいしか経っていない。なかなか元には戻れないわ…。いつか私たちのところへ立ち寄って遊びに来て。ほら、名刺をあげるわ」彼女は彼の横を通り過ぎ、キッチンを出て行った。彼はそのままだった。彼女は名刺を持って戻り、形式ばって彼に差し出した。「立ち寄って」彼女は言った。「私を連れ出してランチをごちそうして」

「ぜひとも」彼は言った。彼はすでにいつどうやって再びボイシに戻るかを考えていた。往復千マイル以上もの道のりを自分の時間を使ってドライブする価値があるのだろうか。もし会社の仕事を待っていたら、あと半年はかかるかもしれないし、今と同じように一日くらいしか許されないかもしれない。心の中で葛藤している間に、スーザンは彼を置いて他の人たちと一緒にリビングに行った。

 本当に彼女に夢中になってしまった、と彼は思った。本格的に。

 数分後、彼は皆に別れを告げ家を出た。二度目だ。

 高速道路に向かう車の中で、彼は年上の女性の身だしなみの良さを思った。それがよく見えるのは故意にそうしているからであって、偶然ではない。自然がそれら美しい体格や歯や脚を生み出したのではない。それは培われた美しさなのだ。

 それに加えて、彼は――試したわけでもないが――何をすべきかを分かっていると確信していた。

 彼は高速道路まであと少しのところまで来た。その時、彼はスーザン・フェインが誰であるか一度にすべて思い出した。彼は反射的に減速し、車を滑るように走らせた。

 その頃、彼女はモンタリオに住んでいた。誰も彼女のファースト・ネームは知らなかったし、もちろん「フェイン」は彼女の結婚後の名前である。当然ながら、当時はそんな名前ではなかった。みな彼女をミス・ルーベンと思っていた。最後に会ったのは1949年、彼がまだ高校の学生だったころで、もちろん彼は自分のことをそう思っていたし、彼女もそう思っていた。二人とも、最初から彼のことを学生だと思っていたのだから当然である。

 スーザン・フェインは、彼の五年生の時の担任だった。モンタリオにあるギャレット・A・ホバート小学校。1944年、彼が十一歳の時である。

(第3章へ続く)