第1章
ジム・ファーガソンは運転中にポンティアックの窓を開け、肘を突き出して夏の早朝の空気を肺一杯に吸い込むように身を乗り出した。サンパブロアベニューをゆっくりと進みながら、店や舗道に差し込む陽光を眺めた。すべてが新鮮だ。すべてが新しく、清潔だ。夜の機械が――ぶんぶん音を立てる市の清掃人が集まってきた。あのほうきには税金が使われている。
縁石に車を止め、エンジンを切り、葉巻に火をつけてしばらく座っていた。数台の車が現れ彼のまわりに止まった。車が通りに沿って動く。音、人々の最初の動き。静寂の中で、彼らの動きが建物やコンクリートから金属的な響きを放つ。
いい空だ、と彼は思った。でも長くは続かないだろう。この後、靄がかかる。彼は腕時計を見た。八時半。
車から降りると、彼はドアをバタンと閉めて歩道に出た。左側では、商人たちが精巧にアームが動く日よけを降ろしている。黒人が押しぼうきで、歩道を横切り側溝までゴミを押し出していた。ファーガソンは慎重にゴミを踏みよけた。黒人は何も言わない……。早朝の掃除マシーンだ。
メトロポリタン・オークランド貯蓄貸付会社の入り口には、秘書たちが集まっていた。コーヒーカップ、ハイヒール、香水、イヤリング、ピンクのセーター、肩に掛けられたコート。ファーガソンは若い女性たちの甘い香りを吸い込んだ。彼のいる通り以外では、笑い声、くすくす笑い、親密な言葉が行き交う。オフィスが開き、女性たちがストッキングとコートの渦を巻きながら中につまづき入る……。彼は鑑賞するようにちらりと後ろを見た。カウンターの後ろにいる女性が人々と会うのは、ビジネス的にはいいことだ。女性は気品と優雅さを与えてくれる。帳簿係? いや、客から見えるところにいなければならない。男たちが悪態をつかないように、冗談を言ったり、楽しい時間を過ごしたりできるように。
「おはよう、ジム」理髪店から聞こえた。
「おはよう」ファーガソンは立ち止まることなく、腕を後ろに回し、指をさりげなく垂らしたまま言った。
その先には彼のガレージがあった。セメントでできた坂道を、鍵を手に登っていった。鍵を開け両腕でドアを上げる。ガチャガチャと鎖の音がして、ドアが消えた。
彼はその古めかしい持ち物をつぶさに観察した。ネオンサインが消えている。玄関には夜間の残骸が散乱している。彼は厚紙でできた牛乳パックを歩道に蹴り出した。牛乳パックは風にあおられて転がり落ちた。ファーガソンは鍵をしまい、ガレージへ入った。
ここから始まったのだ。彼は目を細め、ガレージの中に漂う最初のこもった空気を吐き出した。腰を曲げ、主電源を入れた。止まっていた物たちが軋みながら息を吹き返した。横のドアを開けると、少し日差しが入ってきた。常夜灯に手を伸ばし引っ張ると壊れてしまった。彼はポールを掴み天窓を引きずり戻した。高いところにあるラジオは、ザーザーいい始め、やがて鳴り響いた。扇風機はあえぐような音で回りだした。彼はすべての照明、設備と表示板を点灯させた。グッドリッチタイヤの豪華なポスターに明かりを灯した。彼は色彩と形と、そして意識を、この空っぽな空間にもたらした。闇が消え去り、そして最初の一仕事の後、彼は落ち着いて休憩した。創造の七日目*1にはコーヒーを飲むのだ。
コーヒーは隣の健康食品店のものだ。彼が入ると、ベティが立ち上がって奥からサイレックスを取り出した。「おはよう、ジム。今朝は機嫌がいいわね」
「おはよう」彼は言い、カウンターに座りズボンのポケットから十セント硬貨を取り出した。確かに私は上機嫌だ、と彼は思った。それには理由がある。彼はベティに言おうと思ったが、気が変わった。いや、彼女じゃない。どうせ彼女には知られる。
アルにしか話せない。
健康食品店の窓から、車が止まっているのが見えた。人が通った。誰かガレージに入ったのだろうか? よく見えない。昨夜、アルは古いプリムスで帰宅した。車の展示場から持っていった、緑色でフェンダーが傷んでいるやつだ。だから今日は、エンジンがかかりさえすれば、その車で現れるだろう。かからなければ奥さんに押してもらえばいいのだ。いつも二、三台の車が家にはあった。車で直接展示場に乗り付けるのである。
「他には何かどう、ジム?」ベティはカウンターを拭きながら尋ねた。
「いや」彼は言った。「アルを探してるんだ。行かなくちゃいけない」彼は一口飲んだ。ガレージの希望価格は決まった、彼は思った。それでおしまい。不動産取引はそういうものだ。値段を決めて、誰かがそれに応じれば契約成立。ブローカーに聞いてみろ。
いや、彼は騒がないだろう、と思った。たぶん眼鏡の端からちらっと見るだけだ。そしてタバコをふかしながらにっこり笑う。彼は何も言わない。私は全部話したい。彼は私が話したいことよりも多く話すように仕向けるだろう。
「聞いてるだろうが」ベティがもう一度彼の前を通り過ぎたとき、彼は言った。「ガレージを売りに出した。健康のためだ」
「知らなかったわ」彼女は言った。「いつ決めたの?」彼女の年老いたシワのある口が開いた。「心臓のせい? もう大丈夫なんだと思ってた。医者から大丈夫って言われたって言ってたじゃない」
「もちろん大丈夫さ」彼は言った。「車の修理で死ななければな。寝たままトランスミッションを持ち上げるんだ。重さは二百ポンドもある。仰向けに寝たまま持ち上げてみたことがあるかい? 頭上まで持ち上げられるかい?」
彼女は言った「今後どうするつもり?」
「何をするか教えてあげよう」彼は言った。「当然ゆっくり休むよ。そうしても罰は当たるまい」
「そうね」彼女は言った。「でも、思うんだけど…あのお米ダイエット、やってみてもよかったんじゃない? 試したことあるの?」
「米は私の助けにはならんよ」彼は彼女に怒って言った。野菜やハーブを扱うこの狂った健康食品店にも怒りがこみ上げた。「そんなものは神経質な中年女のものだ」
彼女はダイエットについて彼に説明したかった。しかし彼はコーヒーカップを手に取り、うなずいて何かをつぶやき、そのまま外の歩道に出てカップをガレージに運んだ。
彼女からの同情が多いな、と彼は思った。アドバイスならまだしも、変わり者からの同情なんてまっぴらだ。
彼は展示場に古い緑のプリムスが止まっているのを見た。アルが売るために修理した他の古い車のそばだ。看板のある小さな家のそば。敷地内のどこかで、エンジンがけたたましく鳴り響いた。彼はそこにいるのだ、と彼は思った。仕事中だ。カップを持って、彼は暗いじめじめしたガレージの中に入っていった。陽の光の届かないところへ。彼の足音が響いていた。
そこにアルが立っていた。
「ガレージを売ったんだ」ジムは言った。
「そうなのか?」アルが言った。彼はモンキーレンチを持っていた。彼はまだ布のジャケットを着ていた。
「そのことで話があるんだ」ジムは言った。「君を探していたんだよ。あの男が最終的に私の値段で折り合ったのには驚いたよ。たぶん君には話したと思うが、私はずっと高い値段をつけていたんだ。一ヶ月かそこら前に話し合ったとき、私は三万ドルでどうだと言ったと思う。昨夜ブローカーから自宅に電話があったんだ」
親指でレンチを開け閉めしながら、アルはじっと彼を見つめた。あまり興味なさそうな顔をしていたが、老人は騙されない。黒い眉は変わらない。男の口もそうだ。実感がわいてないのだ。眼鏡の奥の瞳は輝き、彼を見つめ続けている。笑っているように見えた。
「車の下敷きになれというのか?」ジムは言った。
「いや」アルはしばらくして言った。彼はまだレンチをいじっていた。
「これは君の土地には影響ない」とジムは言った。「借りている土地なんだから。たしか四月までだったな」彼はそれが四月まで続くことを知っていた。五ヶ月だ。「なぜあいつは更新しないんだ? 更新するんじゃないのか」
アルは言った。「たぶん彼はそれを望んでいる」
「あいつが来たとき」ジムは言った。「全く興味を示さなかった」
「彼はガレージを何かに変えるつもりはないのか?」
「ガレージを何に変えることができるんだ?」しかし彼は知らなかった。知りたくなかった。他人がガレージを運営するなんて考える気にはなれなかったからだ。エプスタインがガレージをどうしようが、燃やそうが、金を敷き詰めようが、ドライブインを作ろうが彼には関係ない。そして、おそらくドライブインを作るだろう、と思った。この敷地は駐車場として使える。だからアル自動車販売はリース契約が切れると同時に無くなってしまうのだ。しかし車を走らせるのは別の場所でもいい。オークランド市内の空き地ならどこでもいい。ビジネス街にありさえすれば。
その後、彼はオフィスのデスクに座った。埃っぽい窓から日の光が入り、このオフィスを暖め照らした。ガレージの中で唯一乾いた場所であるここには、請求書の山、修理マニュアル、カリフォルニア州エメリービルのテストハイ・ベアリング&シートメタルの広告が載ったヌードカレンダーがあった。彼はフォルクスワーゲンの注油箇所の一覧を調べるそぶりをした。
私は三万五千ドルも持っているのに、と彼は思った。私には何の落ち度もないのに、この土地の一部を借りている男が苦しむかもしれないと心配することに時間を費やしているなんて。そうやって、いい気分でいるべきときに、悪い気分にさせられるのが人間というものだ。あのアルのやつのせいだ、と彼は思った。
みんな成功したやつをうらやましがるんだ、と彼は思った。十年も働いて何をいってるんだ? 私は彼の年齢のときにすでにこの場所を持っていた。彼はただの借地人だ。これからもずっとそうだろう。
そんなことで悩んでる場合じゃない。とにかく心配事は多い。自分のこと、自分の体調のことを考えなければならない。
それが第一だ。
なんて無駄なことをしたんだろう。すべての仕事。人の車を修理することに没頭していたこと。いつでも売り払えば、同じだけの金を手にすることができたはずだ。おそらくはもっと高くなったが、今彼はそれを待っていられない。そして彼はそのことを、売却の理由を黙っていなかった。彼はそれを隠しておくべきだった。だがそのかわりに、彼は自分を正当化するために歩き回っていた。ある男たちが彼に罪の意識を感じさせるために躍起なのを知っていたからだ。そして彼らはそうしてきた。そして今がこれだ。
ずっとそうだ、彼は思った。そして以前はさまざまなことを試してきた。何かを学んだのか? 彼の父親は彼に薬剤師になって欲しかった。父親はカンザスのウィチタでドラッグストアを経営していた。学校から帰ると、彼は父の手伝いをしていた。最初は倉庫でダンボールを開け、その後はお客さんを待っていた。しかし父親とうまくいかず、家を出てレストランで皿洗いとして働いていた。後にはウェイターになった。その後、彼はカンザスを離れた。
カリフォルニアで彼はもう一人の男とガソリンスタンドを経営した。ガソリンスタンドの経営は、父親のドラッグストアで働くのとまったくそっくりだった。人々に明るく話しかけ、物を売らなければならなかったのだ。そのためそれらはパートナーに任せ、自分は人目につかない裏方で給脂や修理をやっていた。その結果嬉しいことに、彼が自分のガレージを開いた時、お客さんが一緒について来てくれた。その中には25年近くたった今でも来てくれている人もいる。
彼らはそれでいいのだ、と彼は自分に言い聞かせた。私は彼らの車を点検・維持しているのだから。昼でも夜でも、いつでも私に電話すれば牽引しに来てくれるし、道端で故障しても修理してくれることを彼らは知っている。私がいるから彼らはAAA*2に登録する必要さえない。それに私は彼らをだましたり、必要のない仕事をしたりしたことは一度もない。だから当然私が辞めると聞けば彼らは不満に思うだろう。新しいガレージに行けば、すべてがきれいで、油汚れもどこにもなく、白いスーツを着た若造がクリップボードと万年筆を持ってにこにこしながら出てくるのがわかっている。何が問題なのかを告げると、彼はそれを書き留める。そしてくそったれのクソまじめな組合の整備士が後日のんびりと車を修理する。そして一分ごとに金を払う。その伝票が機械に入りカウントされる。彼がトイレに行っている間、コーヒーを飲んでいる間、電話で話している間、他の客と話している間、彼らは金を払っている。三倍も四倍も高くなるのだ。
そう思うと、会ったこともない知らない組合の怠け者の工員に、彼らはそんな金を払うのか、と怒りが湧いてきた。そんな金を払えるのなら、なぜ私に払えないのか? 彼は自問した。私は一時間に七ドルも請求したことはない。他の誰か得してるんだ。
それでも彼は金を稼いでいた。特にここ数年は、常にやりきれないほど仕事があった。そしてガレージの隣の土地を中古車屋を営むアル・ミラーに貸して稼いでいた。アル・ミラーが所有する古いぽんこつの修理の相談に乗ったり、時には一人ではできないような重作業を手伝ってもらったりしていた。そんなこんなで二人はすっかり仲良くなっていた。
しかしあんな男と一日中一緒にいなければならないなんて、と彼は自問した。古い車やぽんこつをいじくりまわして、週に一台売っているような男だ。毎月、毎月、同じ汚いジーンズを履いている。みんなから借金しまくり、電話も持てない。料金が払えず電話会社から取り上げられた。そして生きている限りもう電話を持つことはできないだろう。
電話を持てないというのは、どんな感じなのだろう。彼は考えた。あきらめるしかないのか。
私はあきらめない、彼は決心した。一緒に金を集めて、請求書を払い、彼らと折り合いをつけよう。結局電話サービスを売ることで彼らは儲けているのだ。そうすれば向こうも歩み寄ってくる。
私は五十八歳だ。彼はひとりごちた。気持ちはどうあろうと、引退は正しい選択だ。やつも私の年齢になってみろ。車のホイールを外すたびに死ぬかもしれないと思う恐怖がどんなことかわかるだろう。
そのとき彼には恐ろしい空想が浮かんだ。以前にも空想したものだ。車の下に横たわっていると、彼の上に車が下りてきた。息をしようとし、助けを求め叫ぼうとしたが、重さで胸が圧迫された。亀や虫のように、ただ仰向けになるしかなかった。するとアルがいつものようにガレージにやってきて、ディストリビューターの部品を持って脇のドアからふらふらと入ってきたのだ。
アルは車の近くまで来た。そして下を見た。老人が仰向けになって車の下敷きになり、じっと上を見つめて声も出せないでいるのが見えた。
彼はしばらく立っていた。運んできた部品を置くこともしなかった。彼の視線がさまよった。油圧ジャッキが滑ってずれているのが見えた。最も恐ろしい事態だ。デフの下からずれたのか、ホースが緩んだのか、いずれにせよ老人の上に車が下りてきた。数時間前のことだろう。老人はただじっと彼を見上げるだけで、話すことさえできなかった。胸は完全につぶれていた。車に押しつぶされたがまだ生きている。彼は無言で、出してくれと訴えた。助けてくれと。
アルは振り返り、ディストリビューターの部品を運んで歩き出した。再びガレージの外に出た。
ジムは机に座り、恐怖を感じ、押しつぶされそうになった。彼はフォルクスワーゲンの潤滑油の一覧を見つめ続けていた。彼は注意をそらし、埃だらけの窓、ヌードのカレンダー、請求書、部品供給会社のリストに目を向けた。しかし彼はまだ自分の姿を見ていた。彼は体の外から見ていた。うつ伏せになり、死にそうな、潰れた、虫のような体が車の下にいるのを。あの車は何だったか? クライスラー・インペリアルだ。そしてアルが外に出て行く。
これが私の人生のすべてだ、と彼は思った。ガレージの仕事をしている限り、ずっと怖かった。ジャッキが滑るのが。ここに一人きりでいると何時間も誰も入ってこない。午後5時ごろになると最後、翌日まで誰も来ない。
でも、そうすると妻が電話をかけてくる。早かったら最悪だ。
誰もそんなことはしない、と彼は自分に言い聞かせた。車の下敷きになった人を放っておくなんて、だだ仕返しをするために。アルだってそうだ。
彼のことは言えない、と彼は思った。彼は自分の感情を表に出さない。彼はどっちに転んでもいいんだ。
そう思いながら、彼はまた今まで見たことのないような妄想をした。以前と同じようにはっきりと見えた。アルがやってきて彼を見つけた。同じ光景だ。しかし今回は、アルが走ってきて車から引き離し、電話に向かって走った。それから救急車が来て、騒ぎが起こり、医者、担架、病院への搬送。そしてアルはついてきて、彼らが正しい処置をしたのか、彼が正しい治療を受けたのか、すぐに確認した。それで彼は回復した。間に合ったのだ。
確かに彼はそうするかもしれない。彼は仕事が速い。ああいう痩せっぽちな男は、まさに重みがない男は、実によく動ける。
しかしアルが自分を見つけ救ってくれるという幻想は、彼の気分を良くすることはなかった。むしろ気分が悪くなった。しかしその理由は分からなかった。ちくしょう、彼は思った。彼に助けてもらわなくても、自分のことは自分でできる。むしろ彼は立ち去ったほうがいい。彼には関係ないことだ。
彼はフォルクスワーゲンの注油表を置くと、電話のそばにあるインデックス付きのパッドを開いた。すぐにブローカーのマット・ペステヴリデスに電話をかけると、秘書につながった。
「もしもし」マットが電話にでると彼は言った。「聞いてくれ、いつまでここにいればいいんだ? 売上は好調だが」
「ああ、六十日くらいでしょう」マットは明るい声で言った。「それぐらいあれば身の回りの整理をするのに十分な時間でしょう。お客さんたちに別れを告げたいでしょうし。長い間来てくれたお客さんに。私みたいな」
「わかった」と言って彼は電話を切った。二ヵ月か、と彼は考えた。一日のうち部分的には来れるかもしれない。重いものは持たない。簡単なことだけする。医者がそう言ったんだ。
第2章
アル自動車販売の前でアル・ミラーはポケットに手を入れて行ったり来たりしていた。
彼はそうするとわかっていたよ、とアルは思った。遅かれ早かれ。誰かに経営を任せるわけにはいかない。自分で経営できなくなったら捨てなければならない。
「どうするんだ」彼は自分に問いかけた。彼がいないとこの古いボロ車を修理することができないんだ。私はそんなに優秀じゃない。私はいじり回すのが好きなだけで整備士ではない。
彼は振り返って自分の展示場とそこにある十二台の車と向かい合った。これらにはどんな価値があるのだろう? 彼は自問した。フロントガラスには白いペンキでいろいろと魅力的な言葉を書いた。「まとめて五十九ドル、タイヤ良し」「ビュイック! オートマチックシフト、七十五ドル」「スポットライト、ヒーター、お申し込みを」「走行良好。シートカバー。百ドル」彼の最高の車であるシボレーは百五十ドルの価値しかなかった。がらくただ、と彼は思った。部品をとるためにスクラップにするべきだ。道路を走るのは危険だ。
四十九年式のスチュードベーカーの横では、充電器が働き続けて充電しており、その黒い線が車の開いたボンネットの中に消えていた。エンジンをかけるにはこれが必要なのだ、彼はわかっていた。携帯型充電器だ。これらバッテリーうちの半分は充電が一晩もたない。朝には落ちている。
毎朝駐車場に着くと、一台一台車に乗り込み、エンジンをかけて回してやらねばならない。そうしないと誰かが見に来たときに、何も動かないままになってしまうからだ。
「ジュリーに電話しなくては」彼は自分に言い聞かせた。今日は月曜日なので彼女は仕事には行ってない。彼はガレージの入り口に向かったが、そこで立ち止まった。この場所からどうやって話をすればいいのだ? 彼は自問した。しかしもし彼が通りを渡ってカフェに行き、そこから電話をすれば十セントで済むだろう。老人はいつもガレージの電話を無料で使わせてくれたので、十セントを払うということに直面するのはつらいことだった。
待とう、彼は決めた。彼女がこの駐車場に来るまで。
十一時半、彼の妻は古いダッジに乗って駐車場の縁石に乗り上げた。その車は屋根から内装が垂れ下がり、フェンダーは錆びつき、フロントの位置がずれている。車を停めると、妻は元気な笑顔を見せた。
「そんなに嬉しそうにしなくても」彼は言った。
「みんなあなたみたいに暗い顔してないといけないの?」車から飛び降りてジュリーが言った。色あせたジーンズを履いていて長い脚が細く見えた。髪は後ろでポニーテールに結んでいる。真昼の陽射しの中で、そばかすのある少しオレンジがかった顔は、いつものように自信に満ちていた。彼女は眼を躍らせ、財布を持って彼の元まで大股で歩いてきた。「お昼は食べたの?」彼女は言った。
アルは言った。「じいさんがガレージを売ったんだ。この店は閉めなきゃいけない」彼はできるだけ悲壮感をただよわせた。彼は明らかに彼女の機嫌を損ねたいのだ。彼は罪悪感もなくそうした。「だからそんなに陽気になるなよ」彼は言った。「現実的になろう。ファーガソンなしにはこいつらを維持することはできないんだ。ちくしょう、私は車の修理のことなんて知らないんだ。私はただのセールスマンだ」彼は落ち込んでいるときほど自分のことを中古車のセールスマンだと考えていた。
「誰に売ったの?」彼女は言った。微笑んだままだったが、今は慎重になっていた。
「わからない」彼は言った。
彼女はすぐにガレージの入り口に向った。「聞いてみるわ」彼女は言った。「彼らが何をしようとしているかわかる。あなたにはわからないかもだけど」彼女はガレージの中に姿を消した。
ついて行くべきか? 彼は老人にもう一度会う気があまりしなかった。しかし一方で、そのことを話し合うのは彼の仕事であって妻の仕事ではない。そこで彼は後を追った。彼女の速く長い足の歩幅なら自分よりかなり先に行っているのは分かっていたが。そして案の定、車庫に入り薄明かりに目が慣れた頃、彼女は老人と会話をしているのを見つけた。
ゆっくりと近づいてたが、どちらも彼に注意を払わなかった。
老人はいつものようにかすれた低い声で、アルに言ったのと同様に説明していた。彼は同じ理由をほとんど同じ言葉で話していた。まるで入念に準備したスピーチのようだ、とアルは思った。老人は彼女に話した。これは自分で選んだ道ではない。彼女もよく知っているように、自動車修理のような重労働はもうできないと医者に言われたからだと。アルは真昼の明るい通りや行き交う車や人々を眺めるように立って、興味もなく聞いていた。
「ええと、言わせてもらうと」ジュリーは爽やかな声で言った。「これはいいことかもね。ひょっとしたら学校に戻れるかも」
それを見てアルは言った。「くそっ」
老人は赤く腫れ上がった右目をこすりながら彼を見た。どうやら目に何か入ったようだ。腰のポケットから大きなハンカチを取り出して、その端を自分の目に当てだした。彼はアルとジュリーの二人を見つめた。アルに対しては狡猾さと緊張が入り混じったような表情を向けた。この老人は心を決めていた。ガレージのことだけでなく、二人のことも考えた上で自分の立場を決めていた。彼らに正しいことをしたかどうかは問題ではなかった。彼は譲らなかった。アルはそんな彼をよく知っていた。老人はあまりにも頑固だった。ジュリーの有無を言わせない舌をもってしても、この老人に影響を与えることはできない。
「まったく」老人はつぶやいた。「こんなじめじめしたすき間風吹くところで働くなんて最低の人生だ。何年も前に死ななかったのが不思議なくらいだ。ここから出られたら嬉しいよ。当然休暇を取るさ」
ジュリーは腕を組みながら言った。「新しい所有者が私の夫に同じ金額で土地を貸し続けるという条項を、売却のときに盛り込めばよかったんだわ」
老人は首をかしげながら言った。「いやあ、私にはわからんよ。ブローカー次第だ。全部任せてあるから」
妻の顔は真っ赤になっていた。アルは彼女がこれほど怒っているのをめったに見たことがなかった。彼女の手は震えていて、腕組みをしていたのはそのせいだ。手を隠しているのだ。「聞きなさいよ」彼女は甲高い声で言った。「なんですぐ死んで、アルにガレージを譲らないの? だって、あなたには子供も家族もいないんだから」そして彼女は黙り込んだ。まるで自分が悪いことを言ったとわかっているみたいだ、とアルは思った。そしてそれは悪いことだ。それは不当なことだ。あのガレージはあの老人のものだったのだ。しかしもちろんジュリーはそんなことは認めないだろう。彼女は事実に縛られることはないのだから。
「さあ」アルは彼女に言った。アルは彼女の腕を掴んで、何かぶつぶつ言っている老人から引き離し、玄関と通りのほうへ無理矢理連れ出した。
「ほんと頭に来たわ」二人が陽の光の中に出てくると彼女は言った。「彼は本当に老いぼれだわ」
「老いぼれなんて、とんでもない」アルが言った。「彼は賢い」
「動物みたいよ」彼女は言った。「他人への心づかいがない」
「彼はいろいろやってくれたよ」彼は言った。
「車を全部売ったら」彼女は言った。「いくらになる?」
「五百ドルくらいかな」彼は言った。でもそれよりも少しは高いだろう。
「フルタイムに戻らなきゃ」彼女は言った。
アルは言った。「他の場所を探してみるよ」
「彼の助けなしにはできないって言ってたじゃない」彼女は言った。「売りに出せるような車を買うだけの元手がないって」
「他のガレージと取引する」アルは言った。
ジュリーは言った。「この際だから学校に戻れば」彼女は立ち止まって彼にしっかりと向き合った。
ジュリーの頭の中では、アルには大学の学位が必要なのだ。彼はカリフォルニア大学に一年通ったが、あと三年必要なのだ。そうすれば彼女が言うところの「いい仕事」に就けるはずだった。学位は実用的な科目で経営学が彼女の希望だった。一年間は何の専攻もなかった。一般的なコースであれこれと勉強したが、彼はこのコースに魅力を感じずそのままになっていた。
ひとつには彼は屋内にいるのが嫌いだった。おそらくそれが中古車屋に魅力を感じた理由だろう。一日中外で太陽の光を浴びながら仕事ができるのだ。それにもちろん彼の上司は彼自身である。自分の好きな時に来て好きな時に帰れる。八時か九時か十時に店を開けて、一時か二時か三時にランチに行く。三十分でも一時間でもいられる。あるいは車の中で昼食をとることもできた。
彼は敷地の真ん中に玄武岩のブロックで小さな建物を建てた。窓のサッシはアルミ製で卸売りで手に入れた。実は配線も卸売りで買った。屋根も備品も同じだ。ほとんど家みたいなものだ、と彼は思った。自分の手で建てた家であり、自分の所有物であり、好きな時に行って好きなだけ人目につかないところにいられる。その中には電気ストーブ、机、ファイルキャビネットがあり、キャビネットの中にの雑誌や仕事の書類などが入っていた。時には月五ドルで借りているタイプライターもあった。以前は電話もあったが永久になくなった。
もし引っ越しをして、もしこの土地を手放したら、この家も一緒に持っていくだろう。車と同じようにこの家も彼の所有物である。車と違ってこれは売り物ではない。非売品で彼の所有物である、一緒に持っていくものがもう一つある。家と同じように彼が作ったものだ。敷地の奥の人目につかないところに、彼が何カ月もかけて作り上げた車があった。暇さえあればこの車に取り組んでいた。
その車は1932年製のマーモンである。十六気筒で重量は五千ポンド以上あった。その昔この車が動く状態のときは時速百七マイルでた。事実アメリカでも有数の自動車で、販売価格は五千五百ドルだった。
一年前にアルは物置で古いマーモンに出合った。状態は悲惨なものだったが、数週間にわたる交渉の末、タイヤ二本込みで百五十ドルで手に入れた。彼は車のことをよく知っていたので、レストアが完了すればマーモンは二千五百ドルから三千ドルの価値があるとふんでいたのだ。だから当時は良い投資だと思った。しかしこの一年間、彼はレストアに取り組んできたがいまだ完成していなかった。
ある日の午後マーモンの作業をしている時、ふと見ると二人の黒人が立って彼を見ていた。この通りは歩道を通る人の多くが有色人種で、彼は多くの車を白人と同じくらい黒人にも売っていた。
「やあ」彼は言った。
一人の黒人がうなずいた。
「それは何だい」もう一人が尋ねた。
アルは言った。「1932年のマーモンさ」
「なんと」二人のうち背の高い方の黒人が言った。二人とも若かった。スポーツコートに白いシャツ、ネクタイは締めておらず、暗いスラックスを履いていた。二人とも身だしなみはきちんとしているようだ。一人はタバコを吸っていた。話しかけた背の高いほうの男だ。「聞いてくれ」彼は言った。「できればそれを見に父親を連れて来たいな。こういうのに乗るのが好きなんだ。フロリダに遊びに行くときなんかにね」
もう一人の黒人は言った、「ああ、あの年寄りの親父はあんな車に乗るのが好きなんだ。私たちは彼を迎えに行くところだよ」
アルは立ち上がって言った。「これは収集家向きだよ」そしてこの車は売り物ではないことを、少なくとも彼らが理解できるような言葉で説明しようとした。これは輸送手段ではないんだ、と彼は言った。これは大事なの過去の遺産なんだ。とびきり上等のの古いツーリングカーだよ。言ってみれば最高級品さ。そして話しているうちに、実のところ彼らは理解していることがわかった。それも完全に。背の高い黒人の父親がフロリダまで乗りたいのは、まさにこの車だったのだ。よく考えてみると、アルは彼らの言い分がわかった。ただこの車は三十年近く前のもので、走れる状態ではない。実際、第二次世界大戦前から走ったことがないのだ。
背の高い方の黒人は言った。「その古い車を走れるようにしたら、君から買うかもしれない」二人ともとても重々しく、何度も何度もうなずいた。「いくら欲しいんだい?」背の高い方の黒人が聞いた。「あの車がまた走れるようになったら、いくらで売る?」
アルは言った。「三千ドルくらいかな」そしてそれは嘘ではない。この車にはそれぐらいの価値がある。
二人の男はどちらも片目をまばたいた。「それぐらいするだろうな」背の高い方がうなずいた。二人は視線を交わし共に頷いた。「それぐらいは払うつもりだ」背の高い方の黒人が言った。「もちろん一度に支払うことはない。銀行を通すよ」
「そうだな」もう一人も同意した。「頭金を六百ドルほど、残りは期日までに支払うよ」
二人の黒人は、背の高い方の父親と一緒に戻ってくると言って、すぐに立ち去った。当然ながら彼はもう二人に会うことはないだろうと思っていた。はたして、翌日二人は再びやって来た。今度は背が低くてがっしりした老黒人が一緒で、ベストと銀の時計の鎖と黒光りする靴を身につけていた。若い二人は彼にマーモンを見せながら、アルが言った事情を大まかに説明した。熟考の末、老人はやはりこの車ではダメだという結論に達した。それはアルにとってはこの上なく理にかなっていると思えた。老人は運よくタイヤがみつけられるとは思わなかったのだ。大きな町と町の間にあるハイウェイではなおさらだ。結局老人は形式的にお礼を言って、その車を断った。
この出会いがアルの心に残ったのは、その後この特別な黒人の集団をよく目にするようになったからかもしれない。彼らはドリトルという名の家族で、ベストと銀の時計の鎖をつけた老紳士は裕福な人だった。少なくとも彼の妻はそうだった。ドリトル夫人はオークランドに下宿屋とアパートを所有していた。そのうちのいくつかは白人居住区にあり、建物の管理人を介して白人に貸していた。そのことを若い二人の男から聞いた彼は、しばらくして彼らを通して自分とジュリーにとってより良いアパートを借りることができた。二人は今そこに住んでいる。サンパブロに近い五十六丁目の木造三階建ての建物を改装したもので、上の階を借り、家賃は月にたった三十五ドルだ。
家賃が安い理由は二つあった。ひとつは、この特別な建物は排他的でない地域にあり、下の階には黒人の家族、上の階には赤ん坊を連れたメキシコ人の少年少女が住んでいるからだ。同じ建物に黒人やメキシコ人が住んでいても彼には問題はなかった。しかしもうひとつは悩みの種だ。配線や配管の不具合ひどくて、オークランド市の検査官がこの建物を取り締まる寸前までいったのだ。壁の中でショートして数日間停電になることもあった。ジュリーがアイロンをかけると、壁が熱くなって触ることができないほどだ。ここの住人はみんな、やがてこの建物は焼け落ちるかもしれないと思っていたが、日中はほとんどの人が外に出ているので、何とか大丈夫だろうと感じているようだった。ある時、湯沸かし器の底が錆びて穴が開き、水が漏れ出しガスの火が消えてしまい、水は床にこぼれてジュリーの絨毯や調度品のほとんどをダメにしてしまったことがある。ドリトル夫人はいかなる弁償も拒否した。一ヶ月近くお湯が出ない状態が続き、ついにドリトル夫人は、十ドルか十一ドルで中古の湯沸かし器を取り付けてくれる配管工のアルバイトを見つけた。彼女は低賃金の労働者を雇っており、彼らは市が即座に閉鎖しない程度に建物を補修していた。毎日建物を補修し続けるのだ。彼女はいずれこの建物を売って取り壊すのを望んでいる、と彼は聞いていた。彼女は駐車場にすればいいと考えていた。角を曲がったところにスーパーマーケットがあり、そこが興味を持っていたのだ。
ドリトル家は、彼が知っている、あるいは聞いたことのある最初の中流階級の黒人であった。セントヘレナからベイエリアに来てから彼が出会った誰よりも多くの不動産を彼らは所有していた。そして一連の賃貸物件を自ら管理しているドリトル夫人は、彼がこれまで遭遇した他の大家と同様に、意地悪でケチだった。黒人だからといって人道主義者ということでもない。彼女は人種を差別せず、白人も黒人も同じようにすべての借家人をひどく扱った。下の階に住む黒人のマケクニーさんの話では、彼女はもともと学校の先生だったそうだ。確かにそんな感じだ。小柄で鋭い目をした白髪の老婆で、ロングコートに帽子、手袋、黒っぽいストッキングにハイヒールを履いていた。まるで教会に行くような格好だ。時々彼女は他の借家人とひどい喧嘩をし、彼女の甲高い大声は、床板からあるいは天井から、彼女がいるところどこからでも聞こえてくる。ジュリーは彼女を恐れていつも彼に対処を任せていた。ドリトル夫人は彼を怖がらせることはなかったが、財産が人間の魂に及ぼす影響について考えさせられた。
それに対して階下のマケクニー家は何も持っていない。彼らはピアノを借りていて、五十代後半と思われるマケクニー夫人は本を見て独学で弾いていた。ジョン・トンプソンの「初級ピアノ教本」である。夜遅くボッケリーニのメヌエットを聞いた。何度も何度も慎重に演奏され、すべての音が等しく強調されていた。
日中マケクニーさんは建物の前の外で緑色に塗ったリンゴの木箱の上に座っていた。その後、誰かが椅子を用意してくれた。おそらく通りにある大きな中古ドイツ家具屋だろう。マケクニーさんは何時間も座り続け、通りかかる人みんなにうなずきながら挨拶をしていた。アルは最初マケクニー家が経済的にやっていけるのか不思議に思っていた。何の収入源も聞いていなかったからだ。マケクニーさんはけっして家から出なかったし、夫人も留守がちで、買い物にいったり友人を訪ねたり、教会での奉仕活動などをしていた。しかし後になって、成人して家を出た子どもたちが彼らを支えてくれていることを知った。マケクニーさんは、月に八十五ドルで暮らしている、と誇らしげに語った。
マケクニーさんの幼い孫は遊びに来ると、歩道や角の空き地で一人遊びをしていた。年中近所に住んでいる悪ガキたちには決して加わらなかった。名前はアールといった。彼はいつも静かで、大人たちともほとんど話さなかった。朝八時になると彼は現れ、ウールのズボンにセーターという出で立ちで、重々しい表情を浮かべていた。彼は肌が白く、白人の血を受け継いでいるのだろうとアルは推測した。マケクニー家は彼を自由にさせていたし、彼は責任感が強そうにみえた。白人、黒人、メキシコ人の近所の子供たちのように道でることはなかったし、物に火をつけることもなかった。実際、彼は彼らより一段上に見えたし、貴族的でさえあった。アルは時折、彼のありそうな生い立ちについて考えることがあった。
一度だけアールが怒りの声を上げたのを聞いことがある。通りの向こう側で、二人の丸頭の白人の少年が、二人ともいじめっ子だが、暇を持て余していた。二人はアールと同い年だった。彼らは気分が乗ると、青い果物や瓶、石、土の塊などを集めて、家の前の歩道に黙って立っているアールに向かって投げつけた。ある日、アルは彼らが冷ややかな声で叫んでいるのを聞いた。「おい、お前の母ちゃんブスだな」
彼らは何度も何度も繰り返し、アールは彼らに向かって無言で睨みつけ立っていた。両手をポケットに入れ、ますます険しい顔になった。そしてついにその嘲りに対し答えたのだ。
大きな低い声で彼は叫んだ。「気をつけろよ、小僧ども! 気をつけろよ、そこのガキども!」
してやったりだ。白人の少年たちは去っていった。
回想と思考でアルの頭の中はいっぱいだった。彼の店に車を見に来る人々、金のない子供、輸送手段が必要な労働者、若い夫婦。ガレージの前に妻と立っていると、それらの人びとのことを考えたが、彼女が話していることは考えなかった。彼女は今、ウエスタン・カーボン・アンド・カーバイド社で秘書をしている自分の仕事のことを話していた。彼女はいつかきっぱり辞めたいと思っていることを、彼は思い出した。彼女がそうするためには、彼はもっとたくさんお金を稼がなければならないだろう。
「……あなたは人生から逃げているのよ」ジュリーはそう言い切った。「小さな穴から人生を見ているのよ」
「そうかもしれない」彼は言って、ふさぎこんだ。
「こんな荒れ果てた地区を離れましょう」彼女は小さな店が並ぶ通りを身振りで示した。床屋、パン屋、ローン会社、通りの向こうのバー。腸内洗浄用品の看板はいつも彼女を不安にさせる。「あんな薄汚いアパートに我慢して住むなんてもう考えられないわ、アル」彼女の声はやわらかくなった。「でもあなたに苦労をかけたくないの」
「わかったよ」彼は言った。「たぶん私に必要なのは腸内洗浄だ」彼は言った。「何だか知らないが」
(第3章へ続く)