The Broken Bubble
フィリップ・K・ディック

試訳です。誤訳・拙訳ご容赦。
第1章 | 第2章

第1章

 ルークはでっかく商売しますよ。夏が来ました。ルークはあなたと取引をする準備がばっちりできています、ばっちりできてますよ。三つのでっかい敷地で、車、車、車、車があふれそうです。あなたの古い車にはどんな価値があると思いますか? 新品のプリムスやシボレーの四ドアセダン、フォードのカスタムデラックスランチワゴンなら思ったより価値があるかもしれません。ルークは最近でっかく商売し、でっかく買い、でっかく売ってます。ルークはでっかく考えています。ルークはでっかいんだ!

 ルークが来る前は、ここはたいした町じゃありませんでした。今は本当にでっかい車の町です。みんな新車のデソートに乗っています。パワーウィンドウとパワーシート付きです。ルークに会いに来てください。ルークはオクラホマの生まれ、太陽の光が降り注ぐここカリフォルニアに来る前です。ルークは1946年、日本に勝った後にここに移ってきました。あの宣伝のトラックが通りを走っているのを聞いてください。いつも走っていますよ。聞いてください。大きな赤い看板を引っ張りながら、いつも「トゥー・ファット・ポルカ」が流れ、「古い車のメーカーや状態に関係なく……」と言っているのを聞いてください。聞こえましたか? どんなボロ車でもいいんですよ。ルークが二百ドルで買ってくます。もし引きずって歩いて牽引して押して来てくれるならね。

 ルークは麦わら帽子をかぶっています。灰色のダブルのスーツを着て、ゴム底の靴を履いてます。コートのポケットには万年筆を三本、ボールペンを二本。内ポケットから公式バイヤーズ・ガイドを取り出してあなたのぽんこつが価値あるものだと教えてくれます。ルークに降り注ぐカリフォルニアの熱い太陽を見てください。彼の大きな顔の汗を見てください。にっこり笑う彼を見てください。ルークがにっこり笑うと、彼は二十ドルをあなたのポケットに入れます。ルークはお金を配るのです。

 ここは自動車通り。サンフランシスコのヴァンネス・アベニューは車の街。すべての窓には、道沿いも上も下も、ガラスに紅白のポスター塗料で書かれた文字。垂れ幕を高く掲げ、旗がはためき、いくつかの敷地はワイヤーに張られたカラーアルミの束で飾られています。そして風船と、夜にはライトアップ。夜にはチェーンが上がり、車はロックされるけど、ライトは点灯。立派なスポットライトからは、虫も燃えるような色の巨大なビーム。そしてルークにはピエロがいます。紳士淑女のピエロが描かれています。建物の屋上に立ち、手を振っていますよ。ルークがマイクを持ち、セールスマンがみんなに呼びかけます。オイル一クォート無料! お皿も無料! お子様にはキャンディとおもちゃの銃を進呈しますよ。スチールギターが歌い、ルークはそれがどれほど好きか。それは故郷のような歌声。

 ボブ・ポージンは、イニシャル入りのブリーフケースを持ちながら、自分はセールスマンであると思われてるのだろうかといぶかしんだ。実際そうなのだが。彼は手を差し出して言った。「私はボブ・ポージンです。ラジオ局KOIFのマネージャーです」。彼は今、ルーニー・ルーク自動車販売で放送時間を売ろうとしているのだ。

「やあ」シャープスタインは銀の爪楊枝で歯をつつきながら言った。彼はグレーのスラックスとレモン色のシャツを着ていた。西海岸の中古車屋みんなと同じように、彼の肌は赤く焼けていて鼻の周りは乾燥してカサカサしていた。「いつ連絡が来るかと思っていたよ」

 二人は車の間を縫って歩いた。

「いい車ばかりですね」ポージンが言った。

「全部きれいだ」シャープスタインが言った。「どの車もきれいだ」

「あなたがルークですか?」

「ああ、私がルークだ」

「放送で何かしようと思いませんか?」それが重要な用件だった。

 頬杖をつきながらシャープスタインが言った。「君の局はどれぐらい地域をカバーしてるんだ?」

 彼は現実的な規模の見積もりを二度出した。このご時勢、何でも言うつもりだ。テレビにどんどん顧客を奪われ、今はリーガルペールビールとL&Mフィルタータバコしか残っていない。独立系のAM局は大変なことになっている。

「テレビに少しスポットCMを出してるんだ」シャープスタインは言った。「これがなかなかいいんだが、確かに高い」

「お客はここサンフランシスコにいるのに、なぜ北カリフォルニア一帯をカバーするために金を払うんですか?」彼はポイントをそこに絞った。KOIF局は、千ワットの出力で、AMやテレビのネットワーク局と同じようにサンフランシスコの多くの人々に向けて放送しているが、コストはわずかだ。

 二人は事務所に行った。ポージンは机の上で紙に数字を書き込んだ。

「いい感じだな」シャープスタインは両手を頭の後ろに回し、足を机の上に上げて言った。「さて、教えてくれ。君の局を聞いたことがないことは認めよう。何か予定表みたいなものはないのか?」

 KOIFは、午前五時四十五分にニュースや天気予報、サンズ・オブ・ザ・パイオニアーズのレコードを放送していた。

「それで」シャープスタインが言った。

 それから五時間はポピュラー音楽の時間。それから正午のニュース。それから二時間、ポピュラー音楽のレコードやライブ録音。それから「クラブ17」という子供向けのロックンロールの番組が五時まで。それからスペイン語の軽いオペラとトークとアコーディオンの音楽が一時間。それから六時から八時までディナーミュージック。それから……。

「つまりは」シャープスタインが言った。「普通の番組だ」

『バランスのとれた番組』音楽、ニュース、スポーツ、宗教。それにスポットCM。それがこの放送局の生命線だった。

「これならどうだ?」シャープスタインが言った 「午前八時から午後十一時までの三十分ごとにCMをいれたらどうだろう。週七日、一日三十一分のCMだ」

 ポージンの口は開いたままだった。なんだって?!

「私は真剣だよ」シャープスタインは言った。

 汗がポージンの腕からナイロンのシャツに落ちた。「さて、どうなるかね」彼は数字を書いた。何という量だろう。汗が目にしみる。

 シャープスタインはその数字を吟味した。「大丈夫そうだ。もちろん暫定的なものだ。一ヶ月やってみてどんな反応があるか見てみよう。エグザミナー紙の広告には満足していないんだよ」

「誰も読んじゃいませんよ」ポージンはしゃがれた声で言った。待て、と彼は思った。KOIFのオーナー、テッド・ヘインズに知らせるまでは待つんだ。「あなたの原稿は私が自分でやります。私が個人的に原稿を扱います」

「書くということか?」

「そうです」彼は言った。何でも、かんでも。

 シャープスタインは言った 「原稿は我々が用意する。カンザスシティから送ってもらう。お偉方からだ。我々はチェーン店の一員だからな。それを放送してくれ」

 ラジオ局KOIFは、サンフランシスコのダウンタウンにある狭くて急なギアリーストリート、マクラフレンビルの最上階にあった。マクラフレンビルは、すき間風の入る古めかしい木造のオフィスビルで、ロビーには長椅子が置かれていた。鉄のエレベーターがあるが、局員はたいてい階段で上っていた。

 階段からのドアを開けると廊下があった。左側がKOIFのオフィスの受付で、机が一つ、ガリ版印刷機、タイプライター、電話、木の椅子が二脚あった。右側はコントロールルームのガラス窓である。床は広い板張りで、塗装もされていない。天井は高く、黄ばんだ漆喰で、クモの巣がかかっていた。いくつかのオフィスは物置として使われていた。その奥に交通の騒音から離れてスタジオがあった。二つのうち小さい方が録音スタジオで、もう一つはより適切な防音ドアと壁のある放送用だった。放送スタジオにはグランドピアノが置かれていた。放送局の中は、廊下で二つに分かれている。その廊下で本局と切り離された大きな部屋があった。その部屋にはオーク材のテーブルがあり、その上には折り畳んだり広げたりした郵便物、封筒、ダンボール箱が山積みになっていて、さながら選挙本部の仕事部屋のようであった。その隣の部屋は送信機の制御室で、配電盤、スイングマイク、プレスト社のターンテーブルが二台、縦型のレコードキャビネット、扉にアーサー・キット*1の写真が貼られた器具保管庫があった。もちろんトイレもあるし、来客用のカーペット敷きのラウンジもあった。そしてコートや帽子をかけたり、ほうきを収納したりするクローゼットもあった。

 スタジオの廊下の奥にある扉は屋上に通じていた。狭い通路が煙突と天窓を通り抜け、非常口につながるがたついた木の階段へと続いていた。屋上のドアは鍵がかかっていなかった。時折、局員が狭い通路に出てタバコを吸っていた。

 時刻は午後一時半、KOIFはクルー・カッツ*2の歌を流していた。ボブ・ポージンはルーニー・ルーク自動車販売との契約書を持ってきて、また出かけて行った。オフィスの受付の机では、パトリシア・グレイが売掛金のファイルから請求書をタイプしていた。コントロールルームでは、アナウンサーのフランク・ハッブルが椅子に寄りかかり電話で話していた。壁の上の隅に埋め込まれたPMスピーカーからはクルー・カッツの音楽がオフィス内に流れていた。

 階段のドアが開いて、もう一人のアナウンサーが入ってきた。背が高く、痩せて、むしろ心配性のような男で、ゆったりとしたコートを着ていた。小脇にレコードを抱えていた。

「やあ」彼は言った。

 パトリシアはタイピングを中断して言った。「放送を聞いてた?」

「いいや」うわの空で、ジム・ブリスキンはレコードを置く場所を探していた。

「ルーニー・ルークの原稿が届いたわ。ハッブルとフラナリーはそれを何度も何度も繰り返している。録音されているものとそうでないものがあるから」

 彼の顔にはゆっくりとした微笑みが広がっていた。彼は馬のような長い顔をしていて、多くのアナウンサーのように伸びきったあごをしていた。目は青白く、温和で、髪は茶色がかった灰色だが後退し始めていた。「どういうことだい?」彼は言った。

「ヴァンネスの中古車屋さんよ」

 彼の頭の中は午後の番組のことでいっぱいだった。自分の番組である「クラブ17」、子供たちのための3時間の曲とトークの計画を練っていた。「どんな感じ?」彼は言った。

「ひどいもんよ」彼女は原稿を彼の前に置いた。レコードを腰に当ててバランスをとりながら、彼はタイプされたページを読んだ。「ヘインズに電話して、これを読んでくれない? ボブが電話したら、しどろもどろになって、収入の話ばかりしていたわ」

「静かに」彼は言って読んだ。

1A: 今日ルーニー・ルークで買った車はきれいな車、そしてきれいなままです! ルーニー・ルークが保証します!

2A(エコー):きれい! きれい! きれい!

1A:きれいな車……きれいな内装……きれいな取引のルーニー・ルーク。ベイエリアの他のディーラーすべてを圧倒する膨大な売り上げです。

2A(エコー):売りますよ! 売りますよ! 売りますよ!

 台本の指示では、アナウンサーはあらかじめエコーの部分を録音しておき、他の部分では自分の声でそれを打ち消すようになっていた。

「それで?」彼は言った。彼にとってはいつもの中古車の売り込みのように思えた。

 パットは言った。「でもこれはあなた用よ。『ディナーミュージックのひととき』のためのね。ロミオとジュリエット序曲*3と」彼女は夜のプログラムを見た。「ティル・オイレンシュピーゲル*4の間よ」

 ジムは電話を取り、テッド・ヘインズの家の番号にかけた。やがてヘインズの落ち着いた声が聞こえた。「どちら様?」

「ジム・ブリスキンです」彼は言った。

「君の家からかい、それとも局から?」

「笑い声のことを教えてやって」パットは言った。

「なんだって?」彼は電話の受話器をおさえながら言った。そしてその時、彼は笑い声について思い出した。

 この笑い声はルーニー・ルークのトレードマークだった。宣伝トラックはそれを街中に運び、展示場の電飾されたタワーのスピーカーはそれを車や歩行者に向かって吹き鳴らした。それは狂気の笑いで、びっくりハウスの笑いだ。それは、ぐるぐる回って、上がったり下がったり、ゆっくり腹に降りてきては鼻腔に発射され、鋭い笑い、非常に甲高い笑い、くすくす笑いが一斉にやってくる。笑い声は泡立ち、わざとらしい。何かが間違っている、基本的な恐ろしい何かが。その笑い声はヒステリックになった。そして抑えが効かなくなったその声は、自らバラバラになって泡のように破裂した。その笑い声は崩れ落ち、沈み落ち、息を切らし、その試練に疲れ果てる。そして深呼吸をしながら、また最初からだ。それは延々と、休む暇なく十五時間続いた。ピカピカのフォードやプリムスの上、車を洗う長靴姿の黒人の上、パステルカラーのスーツのセールスマンの上、オフィスビル、サンフランシスコのダウンタウンのビジネス街の平地の上、そして最終的には住宅街の上、一枚壁が連なっているアパート、ビーチ近くの新しいコンクリートの家、すべての家、すべての店、町のすべての人の上へと降りかかったのである。

「ヘインズさん」彼は言った。「ディナーミュージックのためのルーニー・ルークの原稿をここに持ってます。これは我々のリスナーにはうけませんよ。公園のそばの老婦人たちは中古車を買いません。ラジオが近くにあればすぐ消してしまいますよ。それに……」

「言いたいことはわかる」ヘインズは言った。「しかし私の理解では、ポージンは三十分ごとにシャープスタインの原稿をそのまま放送することに同意したんだ。とにかく、ジム、これは実験的なことなんだ」

「わかりました」彼は言った。「しかしこれを続ければ老婦人も他のスポンサーもいなくなります。その時にはルークは九十台分の五十五年式ハドソンか何かおすすめ品を廃棄することになる。それからどうするんです? 彼が他の中古車屋をつぶした後も、こんなことを続けると思いますか? これは彼らを打ちのめすためなんだ」

「一理ある」とヘインズは言った。

「そうでしょう」

「ポージンはこれに食いついたんだな」

「残念ですがそうです」

 ヘインズは言った。「まあ契約は成立したんだ。シャープスタインとの約束を果たそう。そうすれば将来はこの種のことにもっと用心深くなる」

「しかし」ジムは言った。「つまり、このままディナーミュージックでやれということですか? これを聞いてください」彼は台本に手を伸ばした。パットはそれを彼に渡した。

「どんなものかは知っているよ」ヘインズは言った。「他の独立局で見たことがある。しかし契約を考えると、このまま進めるしかないと思うんだ。手を引くのは筋が悪い」

 ジムは言った。「ヘインズさん、これは私たちを殺すことになりますよ」とにかくクラシック音楽のスポンサーがいなくなる。クラシック音楽を支えてきた小さなレストランも手を引いて、消えてしまうだろう。

「試しにやって見よう」とヘインズは決断して言った。「いいかい、君? もしかしたらいい方向に行くかもしれない。何しろ、これは現在、私たちの最も大きい広告の取引なんだ。長期的な視野に立たねばならない。今なら、その辺の小洒落たレストランがしばらくは不機嫌になるだろうが……また戻ってくるさ。そうだろう?」

 二人はもう少し言い争ったが、結局ジムは諦めて別れを告げた。

「電話してくれてありがとう」ヘインズは言った。「この種の問題を私に相談したいと思ってくれてうれしいよ。オープンに話せてよかった」

 電話を置いて、ジムは言った。「ルークの車はきれいな車だ。」

「それじゃ、出番ね?」パトリシアは言った。

 彼はその原稿を録音スタジオに持ち込んで、「2A(エコー)」の部分をテープに録音し始めた。そして、もう一台のアンペックスのテープレコーダーのスイッチを入れて、「1A」の部分もテープに録音し、番組の時間にはトランスポートをスタートさせるだけでいいように、両方を組み合わせた。作業を終えて、テープを巻き戻し、再生した。スピーカーから彼自身のプロフェッショナルなアナウンサーの声が聞こえてきた。「今日、ルーニー・ルークから買っていただく車は.……」

 再生しながら彼は郵便物に目を通した。最初のカードは子供たちからのリクエストで、最新のポップチューンだ。彼はそれを午後の台本にクリップで留めた。それから、あるビジネスマンからは、ディナーミュージックで室内楽が多すぎるという現実的で外向きで個人的見解の苦情。そしてストーンタウンに住むエディス・ホルカムという優しいおばあさんから、どんなに素敵な音楽を楽しんでいるか、この局がそれを守ってくれていることを喜んでいるか、という素敵なメモ。

 やる気の素だ、彼女の手紙が見える場所に置きながら思った。広告主に見せなくては。苦悩は続いていた……この仕事について五年、これが人生の関心事だと主張し続けていた。彼はこのことに、自分の音楽と番組に専念していた。これが理由だ。

 入口でパットが言った。「今夜は幻想交響曲*5を流すの?」

「そう思ってる」

 彼女は部屋に入り、彼の向かいの快適なアームチェアに座った。彼女がライターでタバコに火をつけると、黄色い閃光が走った。三年前の彼からのプレゼントだ。脚を交差させ、スカートをなでるとさらさらと音がした。かつて彼女は彼の妻だった。いくつかの些細なことが二人をまだつないでいた。ベルリオーズの交響曲もそのひとつだ。昔からのお気に入りで、彼がそれを聴くと、匂い、味、そして今と同じように彼女のスカートのざわめきなど、背景全体が浮かび上がってくるようだった。彼女は重くカラフルなロングスカートと幅広のベルト、そして歴史小説の表紙に描かれた少女たちのシュミーズを思わせるようなノースリーブのブラウスを好んだ。彼女の髪もまた、とかしてないが、流れるようで、黒く、柔らかく、彼女のやり方にいつも似合っていた。実際、彼女は大きくはなく、体重は百十一ポンドちょうどだった。骨は小さかった。空洞なのよ、彼女が一度教えてくれたことがある。ムササビみたいにね。こんないくつもの比喩が二人を結びつけていた。思い出したとき彼は少し恥ずかしくなった。

 二人の好みは基本的に違っていなかったし、結婚が破綻したのもそのためではなかった。実際の話は、彼女もそうであることを願いつつ、自分の胸にしまっておいた。しかし社内の噂話としてはあやふやなままだったろう。二人はすぐにでも、そしてたくさん子供が欲しかった。そして子供ができないので、専門家に相談したところ、なんと! 二人のうち彼が不妊であることがわかったのだ。しかしそのことは次のことほど悪いものではなかった。率直に言うとドナーと呼ばれているものを見つけたい、というパットの願望が関わっていた。そのことで口論になり、二人は離れてしまった。真面目に、しかし自己卑下と怒りを匂わせ、彼は彼女に恋人を作るように勧めた。感情がからむ不倫のほうが、人工授精というSF的な方法よりも容認できると思ったのだ。単純に養子縁組はどうかとも提案もした。しかしドナーという考え方は彼女の興味をそそった。彼の理屈は、彼女は単性生殖に憧れている、というものだったが、それでパットとはうまくいかなくなった。こうして二人は次第にお互いを理解しなくなっていった。

 今、彼女をちらりと見上げると、彼はこの魅力的な女性(彼女はまだ二十七歳か二十八歳を超えていない)を見て、初めて会ったとき彼を舞い上がらせた資質を、これまでと同じように簡単に見出せた。彼女は本物の女性らしさを備えていた。単に上品さや小柄さ、優雅さだけでない。今もそうだが、さらに彼女には基本的に活動的な精神も見てとれた。

 彼の向かいでパットは低い声で言った。「ルーニー・ルークの仕事が何を意味するかわかる? 私たちのクラシック音楽は終わるということよ。彼が欲しいのはオキーミュージック*6、スチールギター、ロイ・エイカフ*7よ。あなたは搾り取られるのよ。老婦人たちは耳を貸さないし……レストランもついてこなくなる。そしてあなたは……」

「わかってる」彼は言った。

「それで何もしないの?」

「できることはやったよ」彼は言った。「意思表示はした」

 彼女は立ち上がり、タバコを消した。「電話だわ」彼女は言った。

 一瞬の動き、色が流れて、彼女は彼を追い越した。彼女のブラウスの明るさが、中央にあるボタンも、そばをかすめる。

 なんて奇妙なんだろう、と彼は思った。かつて、彼女への愛をもって、彼は正しい道を歩み、良い夫であった。今、もしその考えが浮かんだら、それは罪であり、その行為自体が考えられなかった。時間と親密さ、人生の不合理。彼は彼女が行くのを見送りながら、孤独を感じ、自分はまだ答えを持っていないのかもしれないと感じた。期待値の原理……彼の中ではまだこれが雛形であり、判断基準である。離婚して二年になるが、その間、彼女に匹敵するような人には出会っていない。

 私は彼女の周りをうろついている、と彼は思った。私はやはりどこか近くにいなければならないのだ。

 レコードと手紙に戻り、彼はディナーミュージックのメモを用意した。

第2章

 午後五時にはティーンエイジャー向けのポピュラー音楽とトークの番組が終わった。いつもなら通りを渡って、横にある台本とディナーミュージックのためのメモとアイデアをもって、カフェの奥の席で夕食をとっていた。

 七月のある日の午後、「クラブ17」が終わったとき、スタジオのガラス窓の前に十代の子供たちが立って彼を見ているのに気づいた。彼は手をあげて、見えてるよと合図した。この子たちは以前にも来たことがある。セーターに茶色のズボン、バインダーと教科書を持った眼鏡の少年は「地球から来た人類」というSFファンクラブの会長ファーディ・へインクである。その隣にはジョー・マンティラが立っていた。とても色黒でトロールのようにずんぐりしている。ジョーのつやつやした黒髪は、頬や首に油をにじませ、でこぼこの肌からよく手入れされた口ひげまで垂れ下がっていた。ジョーの横には、白い綿のシャツとジーンズを着たアート・エマニュアルがいた。彼は端正な金髪の子供で、たくましい顔、青い目、労働者のような太い腕だ。最初の二人はまだガリレオ高校にいたが、一つ年上のアート・エマニュアルは学校を出てラーセン氏という老人の印刷屋に弟子入りしているとジムに話していた。ラーセン氏はエディストリートに店を持ち、結婚式の招待状や名刺、時には黒人宗教原理主義団体のための小冊子を作っていた。彼は明るく早口の子供だったが、興奮するとどもりながら話した。ジムはこの三人を気に入っていた。スタジオを出て彼らのところへ歩いて行きながら、彼は考えた。この子供たちとの触れ合いが自分にとってどんなに大切なことかと。

「や、や、やあ」アートは言った。「クールなショーだったよ」

「ありがとう」彼は言った。

 三人の子供たちは恥ずかしそうに入れ替わっていた。「もう」ジョー・マンティラは言った。「もう帰らなきゃ」

「センチなビッグバンドの曲はあまりやらないようにしたらどう?」ファーディが言った。「コンボがいいよ、たぶん」

「行くか?」ジョー・マンティラがフェルデに言った。「俺が送っていくよ」

 ファーディとジョーの2人は出発した。アートは残った。彼は異常に興奮しているようで、片足で立ち、足を入れ替えてもう片足で立った。「あ、あ、あの時のこと覚えてる?」彼は言った。「ショーの時、コ、コ、コントロールルームに座らせてくれたよね?」彼は顔を輝かせた。「あれはクールだったよ」

 ジムは言った。「私は通りの向こうで食事をしてくる。一緒にコーヒーでも飲みに来ないか」時々子供たちがついてきて、ラジオや音楽のこと、あれこれと質問をしてくる。彼は夕食のときこの集まりを楽しんでいた。孤独を紛らわすことができる。

 周りを見てアートは言った。「僕の妻も一緒なんだけど、あなたに会いたがっているんだ。彼女はいつもあなたの番組を聴いているんだよ」

「君の何?」

「妻だよ」アートは言った。

「奥さんがいるなんて知らなかったよ」ジムは言った。高校を出たばかりの十八歳の少年が月に五十ドル稼いで結婚もしているとは思いもよらなかった。彼は当然アートは家族と一緒に模型飛行機や学校のペナントが壁に貼り付けられた二階の部屋で暮らしていると思っていたのである。「もちろんだ」彼は言った。「会ってみたい」

 アートの妻は局のカーペット敷きのラウンジにいた。

「こちらは私のつ、つ、妻です」アートは顔を赤らめながら手で少女の肩に触れた。

 少女はマタニティードレスを着ていた。腰のあたりを除いては並外れて細い。髪は短くきざきざに切られていた。化粧もしていないし、ストッキングもはいていない。足元は平たいサンダル。待ちくたびれたのか、顔は無表情だった。鼻は細くやや小さい。目は印象的だった。瞳はかなり暗く、心奪われて宇宙を見渡すように見つめていた。彼女はむしろ栄養が足りてない見た目だったが、その目は否定できない。その目は確かに威厳があった。

「こんにちわ」彼は言った。

「彼女の名前はレ、レ、レイチェルです」アートは言った。

 少女はまだ床を見つめていた。彼女は額をしかめていた。そしておごそかに彼を見上げた。彼女を見てパトリシアを思い出した。二人とも小柄な体格で、野生の動物的なたくましさを持っている。もちろんこの少女は十七歳にも満たないことはわかっている。

 アートは言った。「レ、レ、レイチェルはいつもあなたの番組を聴いているよ。午後は家にいるからね。仕事のあとは夕食の準備をしているんだ。ここに来てあなたと会いたがっていた」

 ジムはその女の子に言った。「コーヒーでもおごろうか」

「あら、いいえ」彼女は言った。「ありがとう」

「行こう」彼は言った 「私が夕食を食べてる間、一緒に通りの向こうへ行こう。私のおごりだ」

 二人は顔を見合わせた後、後に続いた。二人ともあまり話をしなかった。おとなしかったが、心の一部がどこかへ行っているように内気だった。

 席に着くと彼はビーフチョップの皿、コーヒーカップ、サラダ、銀食器を挟んで二人と向かい合った。アートもレイチェルも何も頼まず、両手を見えないようにして近くに座った。カフェは騒がしく活気があった。カウンターは客でごった返しており、席はすべて埋まっていた。

「赤ちゃんはいつ生まれるんだい?」彼はレイチェルに聞いた。

「一月よ」

「部屋はあるのかい?」彼は尋ねた。「みんなで暮らせるところが?」

「フィルモアのアパートよ」レイチェルは言った。「地下にある」

「寝室はいくつ?」

「一つ」彼女は言った。「それにキッチンとリビング」

「結婚して何年?」彼は彼女に尋ねた。

「四月十四日から」レイチェルは言った。「私たちはサンタローザで結婚して……ちょっと逃げ出したの。そうでしょう? 私はまだ高校生だったし、みんな私たちが結婚するべきでないと思ってた。届けを受理する女性に、私たちは大人だと言ったの。私は十八歳、そう書いたわ。彼は二十一歳」彼女は微笑んだ。

 アートは言った。「彼女は届けに僕の母の名前を書いたんだ」

「私たちはそうやって学校を抜け出したわ」レイチェルは言った。「それから街を歩いたり、公園でただ座ってたり。ゴールデン・ゲート・パークよ。私の字はきれいね」彼女は両手をテーブルに置いた。彼は骨ばった長い指が気になった。大人の指だ、と思った。成人の手だ。

「そ、そ、それに」アートは言った。「保安官は最高だった」

「彼は銃まで持ってた」レイチェルが言った。「私たちに何かするかもしれないと思ったの。私たちを連れ戻すとかね。その後、彼はやってきてアートと握手したのよ」

「そ、そ、それで判事は……」

「もし私たちが五ドルも持っていなかったら」レイチェルは言った。「彼に払う必要はなかった。でも私たちは払ったわ。私たちはヒッチハイクをした。その晩は知り合いの女の子の家に泊まった。彼女の家族こう言ったの。キャンプだったかなんだったか。覚えてない。そしてここに戻ってきたのよ」

「追いつかれた時はどうしたんだ?」

「ああ、いろんな事で脅されたわ」

「け、け、刑務所に入れると言われたよ」アートは言った。

 レイチェルは言った。「私、子供を産むって言ったのよ。その時はそのつもりはなかったけど。だから私たちを放っておいてくれたのよ」彼女はしばらく物思いにふけった後言った。「ある晩、私たちは歩いて帰っていたの。ショーの帰りだったわ。パトカーが私たちを呼び止めて、アートを壁際に立たせたの。いろいろと質問されたわ。そして彼を押し倒した」

「夜間は外出禁止だよ」アートは言った。「時間を過ぎてから出歩いたんだ」

 子供たちに夜間外出禁止令があるなんて、なぜか思いもよらなかった。「夜道を歩いてたら捕まるってことかい?」

「どんな子供でも」アートは言った。彼と彼の妻は沈痛な面持ちでうなずいた。

「それに私たちが結婚しているとは信じてなかった」レイチェルが言った。「パトカーで私たちの家に行って免許証を見せなければならなかったわ。そして彼らがアパートの中にいる間、彼らは周りをすべて見て回ったのよ。わかる? いろいろなものをつついたのよ。何を探していたのかわからないけど、ただ見ていたんだと思う」

「それで、何か言ってた?」

「何も。ただ質問されただけ」

「し、し、職業を聞かれたよ」とアートは言った。

「驚いた」彼は言った。それはぞっとする。

「私たちが行けない場所がたくさんあるのよ」レイチェルが言った。「結婚してるのに。私たちが何か壊したり、盗んだりすると思っているのよ。私たちが子供だからよ。結婚したばかりの私たちがこのレストランに入った時みたいにね。私は航空会社の仕事に就いたの。チケットの値段を計算してるのよ」

「彼女は数学が得意なんだ」とアートは言った。

「そして私たちは外出して楽しい時間を過ごしたかったの。ディナーに行ったりいろいろ。でも彼らは私たちを追い出したんだ。ほんといい感じのレストランだったんだけどね」

「正装してなかったんだ」アートは言った。

「いいえ」彼女は言った。「そんなことはないわ」

「ちゃんとした服を着ていれば、追い出されることもなかったのに……」彼は力強く頷いた。

「いいえ、子供だったからよ」

 ジム・ブリスキンは言った「誰も何もしなかったのか? 抗議とか、何か?」

「あの夜、パトカーが私たちを止めたとき」レイチェルは言った。「バーから出てきた人たちだと思うけど、たくさんの人が立ち止まって見ていたわ。おばあさんたちがいた。薄汚い毛皮を着た太ったおばあさんたちが。私たちに向かって何か叫んでいた。何だかよく聞こえなかったけど」

「そして」アートは言った。「彼らはいつもどうすればいいか教えてくれるんだ。私が働いている印刷屋のラーセンさんはいつも何かア、ア、アドバイスをしてくれる。ある日なんか、こ、こ、黒人を信用するなと言われたよ。彼は本当に黒人が嫌いなんだ。でも彼はいつも彼らと取引している。でも彼は彼らをまったく信用してない。現金払いだけだよ」

 レイチェルが言った。「私はこの黒人の少年を知っていて、母と父はほとんど気が狂いそうになったわ。私が彼と付き合いだすかもしれないと恐れたのね」

「不良だな」ジム・ブリスキンは言った。彼女の話を追いながらも、その話の中ではユーモアが感じられない。彼女の態度にしろ、彼女の話そのものにしろ。

 アートは言った。「あのばあさんの一人がそう叫んでいた。不良どもめ。そう言っていたのを聞いたよ」

 レイチェルは彼を見上げた。「そんなことを言ってたの? 聞こえなかったわ。あまりに多くのことが起こったから」

「何かできることがあるはずだ」とジムは言った。「子供の夜間外出禁止令か……。彼らは二十代の男にでも、望むならなんでも、拡大適用できるだろう。赤毛の四十歳の男でもいいじゃないか」誰でもいい、と彼は思った。彼らが望むならなんでも。

 そして彼は思った。私は「彼ら」と言ったのだ。アートとレイチェルが考えていたのと同じように彼も考えていた。断固たる「彼ら」という言葉で。しかし彼にとって「彼ら」は大人ではなく、何であろうか? 彼は熟考し、思わずこのことに引き込まれた。ルーニー・ルークかもしれない。あるいはテッド・ヘインズ。ということであれば、誰でも彼でも。

 しかし誰も彼をレストランから締め出してはいない。夜に彼を呼び止めて、壁に押し付けた人もいなかった。それは彼の心の中にあるもので現実のものではない。この子たちにとっては十分に現実だったのだ。彼は公民権について考えた。善良な人々は公民権やマイノリティの保護について話す。そして夜間外出禁止令が可決されたのだ。

「子供と犬は入店禁止」と彼は言った。

「なんだって?」アートが言った。「そうそう、レ、レ、レストランも」

 彼ら二人が理解するとは思わなかったが、彼らは理解した。南部のレストランの窓には、黒人と犬は入店禁止と書いてあった。しかしここでは黒人ではなかった。排他的でないなんて言っても、いいかげんだ。

 アートは言った「ね、ね、ねえ、どうしてディスクジョッキーになったんだい?」

「奇妙な気分でしょうね」レイチェルが言った。「自分が何かを言ったらみんなが聞いているんだもの。つまり、あなたが言ってること、いつも運転に気をつけろみたいなね。一人だけに話しているのとはわけが違うんだから」

「生活のためだ」彼は言った。

「楽しくないの?」少女の目、すてきな黒い目が彼を見つめた。「きっととても奇妙だわ。つまり変な気分でしょ」

 彼女はそれ以上自分のことをはっきり表現できないようだった。二人とも興奮して、彼に何かを伝えようとしていた。その緊張は彼に届いたが、意味は伝わらなかった。

「いや」彼は言った。「慣れるもんだ。セリフを間違えたりしたら、単語が前後逆だったらどうするってことだろ」

 レイチェルは首を横に振った。「いいえ」彼女はそう言うと、不機嫌になったようで、もう彼に話しかけようとはしなかった。

 アートは言った。「そろそろ行こう。家に帰らなきゃ」

「失礼します」レイチェルが言った。彼女はシートの端にすべりこみ立ち上がった。「すぐに戻るわ」

 彼女がお客の間を通り過ぎるのをジムとアートは見ていた。

 ジムは言った。「君が結婚していたなんて知らなかったよ」

「まだ三ヶ月だよ」

「彼女はとても可愛いな」

「そ、そ、そうなんだ」アートはテーブルを爪でひっかきながら言った。

「どうやって知り合ったんだい?」

「ボウリングさ。僕らはボウリングをしたんだ。つまり学生時代に知り合ったんだ。僕とジョー・マンティラでボウリング場に行ったんだ。そ、そ、それで彼女に会って、確信したのさ」

 レイチェルが戻ってきた。彼女は小さな白い紙袋を持っていて、それをジムの前に置いた。「あなたに」

 袋を開けると彼女は彼にケーキを買ってきていた。甘いデニッシュペストリーロールだ。

「彼女はそういうのが好きなんだ」アートは言って妻の横に立った。彼は妻に腕をまわした。「彼女は人に物を買ってあげるんだ」

 レイチェルが言った。「今度うちに来て、一緒に食事でもしない? たぶん日曜日ね。私たちは知り合いが少ないの」

「もちろん」彼はそう言って立ち上がった。彼は機械的に白い紙袋を閉じた。今まで誰も彼にケーキを渡したことはなかった。彼はどう反応していいか分からなかった。彼は深く悩み、自分は彼らに何ができるんだろうかと考えた。彼は自分が彼らに何か借りがあるという事実を理解したのだ。

 袖をずらして腕時計を見せて、彼は言った。「家に帰るのに車はあるのかい? よかったら……」

「家には帰らないわ」レイチェルが言った。「ショーに行こうと思ってね」

「ありがとう」とアートは言った。

「また今度だな」彼は言った。もっと何か言うことがないかと考えて彼は言った。「どうかな?」

「わかったよ」とアートは言った。

 レイチェルは言った。「あなたに会えてとてもうれしいわ」それは形式的な小さな言葉だったが、彼女はその言葉を元気に押し出した。彼女はその言葉をねじり、絞り出し、丁寧に作り上げた流儀で前に出したのだ。そして彼女は言った。「いつか来るというのは、本当にそのつもりなの?」

「そのとおりだよ」彼は言った。そして彼はそうした。

 二人がカフェの外に出て行くのを見送った。アートは彼女の手を握りながら先を歩き彼女をリードした。彼女の動きはゆっくりだった。体重のせいだ、と彼は思った。すでに彼女はお腹が膨らみ始めており、ドレスは前部が持ち上がり、彼女は瞑想するかのように頭を下げて歩いていた。歩道で二人は立ち止まった。彼らは特にどこへ行くという様子もなく、彼はあるイメージを思い描いた。二人が歩道をさまよい、誰にも気を使わず、自分がどこにいるのかもわからず、疲れて家に帰るまでずっとさまよっている、そんな光景を。

 食事は冷めていて食べ終わる気がしなかった。会計を済ませると外に出てギアリーストリートを横切り局に戻った。アートとレイチェルの印象が消えず、彼は局の受付に立ち寄って、仕事に戻る前に時間をつぶした。ここ数年、彼はパットに自分が没頭していることを話すのが習慣になっており、そして今、彼はパットの机に近づいている。しかし机の上の小物はすべて引き出しの中にしまってあった。彼女の机はすっきりとして殺風景だった。パットは局を出て家に帰った後だった。

「もうこんな時間か」彼は驚いた。

 奥の部屋に入りレコードを広げた。そして夜の番組の曲順にレコードを並べつづけた。そのレコードと一緒にルーニー・ルークの原稿があり、その原稿にルーニー・ルークから送られてきた十六インチの録音盤が留められていた。その録音盤はCMの缶詰だ。その一枚をターンテーブルに乗せ一曲目を再生した。

 ターンテーブルの下のスピーカーから聞こえてきた。「ホーホホハハハハウィーヒーヒーホホホハウウウウウウウウ!」

 ジムは耳をふさいだ。

「はい、皆さん」スピーカーは宣言した。「だれもかれもルーニー・ルークに来てください。ここでは今まで聞いたこともないような公正な取引ができるだけではありません、皆さん、ハイウェイに持ち出すことができる、本当にすべてにわたってきれいな車を手に入れて、ハイウェイまで行けるのです、皆さん、そしてその車で、皆さん、シカウゴ*8まで行けるのです……」

 カンザスシティのアナウンサーの、垂れ下がった顎と緩んだ唇に浮かぶ虚ろな笑み、愚かな笑みが、彼の脳裏に浮かび上がった。誠実な口調だ……大げさなたわごとを盲信して、悪酔いしている。薄笑いを浮かべた空虚なびっくりハウスの顔が、よだれを垂らして信じてる、よだれを垂らして信じてる。彼は録音盤からトーンアームを持ち上げようと手を伸ばした。

「ハハハ、みなさん」スピーカーが泣きわめいた。「そう、その通り、ハハハ、ルーニー・ルークがあの古いホーホーを引き取って、現金でヒーヒーするよ、ハハ!」

「ハハハ」と彼は思って再生を止めた。指が滑ってトーンアームが柔らかいプラスチックの表面をこすり、ダイヤモンドの針が外周からラベルまでの道を切り開いた。そして一巻の終わり。録音盤は台無しになった。針が傷をつけさらにラベルを傷つけるときのすさまじい音に耳を傾けながら、労働災害だと彼は思った。ラベルは崩壊し、ちぎれた破片は彼に向って飛び、白い小片となって四方八方に散り捨てられた。

(第3章へ続く)