第1章
その初夏の一日が終わろうとしていた。昼間は暖かかったが、日が沈むと夕方から寒くなってきた。カール・フィッターは重いスーツケースと茶色の紐で縛った小さな荷物を抱えて、男子寮の正面の階段を下りてきた。
階段を下りて彼は立ち止まった。粗い木の階段は灰色で屋外塗料で塗られており、時を経て欠けたり剥がれたりしていた。その階段はカールがこの会社で働くようになるずっと前に塗られたものだった。彼は振り返った。最上階のドアがゆっくりと閉まっていく。彼が見る間にバーンと音を立ててきっちりと閉まった。彼はスーツケースを置き、財布が落ちないようにポケットにボタンで留めてあることを確認した。
「あの階段を下りるのはこれで最後だ」彼はつぶやいた。「最後か。またアメリカを見るのもいいものだ。久しぶりだ」
窓のブラインドが下ろされていた。カーテンはなくなっていた。どこかで箱詰めにされている。彼はこの建物に残っている最後の人間ではない。まだ最後の施錠が残っていた。しかしそれは作業員がやってくれる。作業員は窓やドアにしっかりと板を打ち、新しい所有者が到着するまで建物を守るのだ。
「何とも惨めな姿だ。でも感動的な光景というほどでもない」
彼はスーツケースを手に取り、歩みを進めた。雲は夕日を覆い、その最後の光だけが見える。空気は、この夕方の時間帯によく見られるように、小さなものに満ちているように見えた。粒子の層が夜という存在に変貌していくようだ。彼は道に出て立ち止まった。
彼の前では二台の社用車の周りに男女が集まっていた。旅行カバンや箱が山積みになっており、作業員が二台の車の後部に積み上げている。カールはエド・フォレスターが紙を手にして立っているのを見つけた。彼は彼のところへ歩いていった。
フォレスターは頭を上げた。「カール! どうなってるんだ? 君の名前が書いてないぞ」
「なんですって?」カールは肩越しにリストを見た。夕闇の中ではどの名前も確認することができなかった。
「これは私と一緒に行く人のリストなんだ。でも、ここに君の名前がないんだ。見えるか? たいていの人は自分の名前をすぐに見つけるよ」。
「見えません」
「オフィスで何を言われたんだ?」
カールは立っている人たちやすでに二台の車の中にいる人たちをぼんやりと見回した。
「オフィスで何を言われたんだ、と言ったんだ」
カールはゆっくりと首を振った。彼は自分の荷物を置き、リストを車のヘッドライトの下に運んだ。彼は黙ってそのリストを調べた。彼の名前は本当になかった。裏を見たがなにもない。会社のレターヘッドがあるだけだ。彼はリストを返した。
「これが最後のグループですか」彼は聞いた。
「そうだ、トラック一杯の作業員を除いては。トラックは明日か明後日に出発する予定だ」フォレスターは立ち止まった。「もちろん可能性はあるが…」
「可能性ってなんです?」
フォレスターは考え込んで鼻をこすった。「カール、もしかしたら君は、彼らがここに来るまで残ることになっている一人かもしれない。オフィスに行って、元の運行表を探してみたらどうだ?」
「でもみんなで行くと思っていた…」
「ああ、そうか」フォレスターは肩をすくめた。「今の会社の状況を知らないのか?」
「でもここにいたくないんです! もう家に手紙を出しました。荷物は全部まとめてあります。準備万端です」
「一週間かそこらのことだ。オフィスに行って見てこい。車を数分止めておくから。一緒に行くんだったら、早く帰ってくるんだ。そうでなければポーチから手を振ってくれ」
カールは再び自分の荷物をまとめ始めた。「理解できないよ。全部荷造りした。確かにこれは何かの間違いに違いない」
「六時になりました、フォレスターさん」作業員が呼んだ。「全部積み終わりました」
「ご苦労さん」フォレスターは腕時計を見た。
「私は今これに乗っていいんですか?」女性の一人が尋ねた。
「乗るんだ。山の向こう側で本隊に追いつかなければならない。だから時間通りに出発するんだ」
「さよなら、フォレスター」カールは手を差し出した。「オフィスに行って、話を聞いてきます」
「君が戻ってくるか、手を振るのを見るまでは走り出さないよ。幸運を祈る」
カールは砂利道を急ぎ、暗がりの中をオフィスビルに向かった。
フォレスターは彼が階段を上りドアを通るのを見た。数分後、彼は焦り始めた。車には荷物が積まれ、人々は不快で落ち着かない雰囲気になり始めていた。
「エンジンをかけろ」彼は一台目の運転手に言った。「すぐに出発するぞ」
彼はもう一台の車に乗り込み、運転席に滑り込むように座った。そして後部座席に座っている人たちに向き直った。
「誰かがオフィスから手を振っているのに気づいた人はいますか?」みんな首を横に振った。「あいつめ。彼が何かしてくれればいいんだが。いつまでもここに座っているわけにはいかない」
「待って!」女性が言った。「今、ポーチの上に誰かがいる。見づらいけど」
フォレスターは外をじっと見た。カールが来たのだろうか? それとも手を振っているのか?「手を振っている」フォレスターはハンドルの前で手足を伸ばし、体を楽にした。
もう一台の車が発進し、横一列に並んできた。ヘッドライトを光らせながら、道路を横切っていった。フォレスターはまばたきしながら、アクセルを踏み込んだ。
「かわいそうに」彼はつぶやいた。車は彼の下を通った。「長い一週間になりそうだ」。
彼はもう一台の車に追いついた。
カールはオフィスのポーチに立ち、二台の車が道路をゆっくりと走り建物から離れてゆき、金属製の門をくぐって幹線道路に出るのを見た。とても静かだった。遠く離れたどこかで作業員が暗闇の中で釘を打ったり叩いたりしている音だけがしていた。
第2章
「私にはちっとも関係ないわ」バーバラ・マーラー言った。「私はただの会社の下っ端ですもの。もう一週間ここにいてもいいんじゃないかしら」
「一週間以上かもしれない。二週間かもしれない。いつ来るかわからないんだから」
「そうね。二週間。三週間でもいいわ。私はここに来て二年になる。アメリカがどんな国だったか覚えていないわ」
ヴァーンには彼女が皮肉を言っているのかどうか分からなかった。彼女は窓際に立って向こうの設備を見ていた。夕暮れ時の暗い霧の中で、設備はまるで古代の建物の円柱や支柱のように見えた。なにか自然災害によって滅びて、大きくて役立たずの支えだけが残ったようだ。その設備はここかしこに散らばっていた。意味のない姿のない建造物から、貴重なものはすでに取り除かれ、木箱に詰められどこかに保管されていた。
ぼんやりと二人の作業員の姿が現れ、なにか金属部品を二人で持って窓のそばを通り過ぎた。彼らは無言でもがき、暗闇の中に消えていった。
バーバラは背を向けた。「何の季節?」
「どこの?」
「アメリカよ。どの季節?」
「知らないな。秋? 夏? いや、こっちは夏だ。それがどうしたんだ? 重要なことか?」
「そうでもない。アメリカには好き好んでサンフランシスコに住む人がいるのを知っている?」
「なぜダメなんだ?」
「霧よ」彼女は窓の向かってに身振りをした。
ヴァーンはうなずいた。「それが気になる? 驚いた。霧が晴れても、君はもっと幸せにはなれないよ」
「そうかしら?」
「疑わしいな。この辺りは霧の向こうがどうなってるか知ってるかい? 街のゴミ捨て場さ。あるいは誰かの昔からの裏庭。ここは世界の裏庭だ。昔からのガラクタがたくさん積まれてる、よくわからないけど。会社は昔からあるんだ」彼は手を伸ばし頭上の明かりを点けた。オフィスは淡い黄色の光に包まれた。
「今、出発するところよ」
「ここから出て行くんだ。でもどこか別の場所に着くだけだよ」
「本当?」
「君は面白い人だ。君の心の中で何が起こっているのか、何とも言えない。たぶん君は何も考えていないんだろう。少なくとも僕が考えているようなことではないね。女ってそんなもんだ」
「あら、そう」 バーバラは窓から離れた。「私の心の内を話すわ。私たちが居残ることが問題じゃないの」
「じゃぁ、何?」
「彼らが行ってしまうことよ。みんな引き揚げていく」
「他に何ができるんだ?」
「彼らは何かしら戦えばいいのよ」
「戦わなくてはならないとしても、四億五千万人は多すぎる。いずれにせよ現実を見るんだ。この地域全体が中国のものだ。私たちのものじゃない。法的には何の権利もない。中国全土でこの種の契約はすべて無効にされてしまった。革命が終わったとたんに、僕らの事業は水の泡だ。外資系企業を追い出すのは誰でも知ってるよ。ロシア人以外はね。上海が陥落して以来、僕らの時代は終わったんだよ。多くの企業が同じようなことをやっているさ」
「そうね」
「僕らは運がいい。山を越えてインドに行けるほど南に離れてる。つまり少なくとも外に出られるということさ。北の方の人らはそれほど運がよくなかったようだ」ヴァーンは壁のカレンダーに手を振った。「1949年という年はビジネスにとって不運な年として本に載るだろう。少なくともこの地域ではね」
「ワシントンの人たちが何かしてくれるわよ」
「それはどうかな。それが時代なんだ。大きく衰退し流れゆく歴史の傾向だ。アジアは欧米の企業がうろつく場所でじゃない。こうなることは何年も前から誰だって予想できた。1900年にはこんなことが起こってたのさ」
「何が起こったの?」
「義和団の乱*1さ。これと同じだ。これが始まりだ。僕らは勝った。でも時間の問題だったんだ。あいつらに引き継がせるさ。望もうが望むまいが、会社は損益を清算しなきゃならない」
「どのみち私たちは帰るわ」
「ここを離れるのはいいことだよ。雰囲気でわかるだろ。緊張感だ。緊張から解き放たれるのはいいことだ。僕たちはこんなことを長く続けて、あまりにも疲れている。消耗が激しすぎる。僕たちは『招かれざる客』なんだ。間違ったパーティーの客だ。だれか他の人のパーティー。僕たちは必要とされていない。皆の視線を感じないか? 僕らは間違った場所にいる」
「そう感じる?」
「ここではみんなそう思ってるよ。僕たちはひどく疲れきってる。プロの笑顔が少し薄れ始めている。そろそろ出口のほうに進んでいく時期だよ」
「追い出されるのは嫌よ」
「身から出た錆だ。僕たちは長く居すぎたから追い出されるんだ。五十年前に出て行くべきだったんだよ」
バーバラはぼんやりとうなずいた。彼女はヴァーンが言っていることを聞いていなかった。彼女はオフィスの周りをうろうろしていた。「カーテンが無いなんてひどいわね」
「カーテン?」
「もう無いわよ。撤去されたの。気がつかなかったの?」オフィスはみすぼらしく殺風景だった。漆喰の壁にはシミと傷があった。
「気づかなかったよ」ヴァーンはニヤリと笑った。「覚えていないかい? 僕はそういうことに気づかないのさ」
バーバラは彼に背を向けて再び窓の外を見つめた。外は、空から霧が降りてきて、大きな柱が闇に溶け、暗がりの中でさらに曖昧でぼんやりとしてきた。
「話をしたくないのかい?」ヴァーンが言った。
彼女は答えなかった。
「最後の二台がそろそろ出る頃だ。下におりて運のいい人たちにさよならを言いに行くかい?」
バーバラは首を横に振った。「いいえ、私は女子寮に行って自分の部屋を片付けるわ。ここに残ることをついさっき知らされたばかりだから」
「彼らは僕らの名前をでたらめに選んだんだよ」ヴァーンが言った。「運まかせ。あるいは神の思し召しか。僕らは残り、彼らは去る。いいじゃないか、君と僕が一緒で。そしてもう一人。誰だろう。たぶんどっかの馬鹿野郎だ」
バーバラはポーチの階段を下りて外に出た
バーバラは寮への小径をゆっくり歩き、立ち止まった。作業員の何人かが玄関のドアに大きな南京錠のついたチェーンをかけていた。
「ちょっと待って!」彼女は言った。「鍵は他の場所につけて。ここは例外なのよ」
「オフィスの建物と男子寮の一つだけを開けておくことになってるんだ」作業員が言った。
「まあ、私は男子寮には泊まなないから。ここに泊まるの」
「俺たちは…」
「何を言われようが関係ない。ここは私の場所よ。ここに泊まるの」
作業員たちは一緒になって考えていた。
「わかった」作業員の親方は言った。彼らは再び錠と鎖を外した。「これでいいか?」
「窓はどうするの? 板ははずすの?」
作業員たちは道具を集めた。「おそらく仲間の誰かがやってくれるさ。予定があるんだ。夕方にはここを出なければならない」
「明日まで働くと思ってたわ」
男たちは笑った。「冗談だろう? そこらじゅうにあいつらがいるんだぞ。あいつらが来たときにここにいたくない」
「彼らが好きじゃないんだ?」
「やつらは羊臭い」
「同じこと言われるわよ。ああ、もういいわ、行って、出てって」
作業員たちは小径へと消えていった。
「彼らはなにも悪くないのに」バーバラは階段を上って、大きくがらんとした建物の中に入った。かつてはきれいで白かった。今は灰色だ。屋根から水が滴り落ち、壁に茶色のシミが長くついていた。釘を打ったばかりの板の下で窓枠は錆びていた。
「でもこれが私の家の代わりなんだ。あのクソ汚い古びた場所が」
彼女は周囲を見回し、暗闇の中で明かりのスイッチを探した。指がそれに触れると彼女はスイッチを入れた。玄関の明かりがついた。バーバラは首を横に振った。壁には無数のポスターや掲示物が貼られていたが、今は古いセロハンテープの跡だけだ。ただ一枚掲示物が残っていた。
許可なく喫煙を禁ず
その下には「お前がな」と鉛筆で書かれていた。
バーバラは二階へ上った。玄関から続くドアには鍵がかかっていた。彼女は自分の部屋のドアの前まで来ると、バッグから鍵を取り出した。彼女はドアの鍵を開け、部屋の中に入り、ランプへ向かった。ランプが点いた。部屋は空っぽで、もの寂しい感じだった。
「まったく寂しい部屋ね」バーバラが言った。鉄のベッドと会社の備品、そしてランプのついた木の小卓以外は何も残っていなかった。ペンキの塗られた床には、絨毯があった場所の跡が残っていた。一点の色すら残っていない。
バーバラはベッドに腰を下ろした。彼女の重さでスプリングが軋んだ。彼女はバッグからタバコを取り出し火をつけた。しばらくの間、彼女はタバコを吸いながら座っていた。しかし味気ない部屋はあまりにも気が滅入る。彼女は立ち上がり落ち着きなく行ったり来たりした。
「くそっ」
ついに彼女は階下に戻った。暗闇の中抜け階段を下り小径に出た。マッチの明かりを頼りにして、道端に荷物が積み上げられた場所までたどり着いた。荷物はほとんどなくなっていた。大きな山は小さくなり、いくつかの木箱と三つのスーツケースが積まれているだけだった。彼女は自分のスーツケースを見つけると、他のものから引き離した。それはカビで湿っていた。そして重い。
彼女はそれを運んで女子寮までの道を戻った。
ポーチで一息ついて、横のスーツケースに寄りかかった。夜のなんて暗いこと! 真っ暗だ。何も動かない。作業員でさえみんな帰ってしまった。さっさと早く出て行ってしまった。すべてが荒れ果て、生命の痕跡もない。
ありえない。会社はいつも夜通しで活気に満ちていた。溶解炉、赤熱する鉱滓、働く男たち、動き回るトラック。えぐり出し、すくい上げ――しかし、今は違う。あるのは静寂だけだ。暗闇と静寂。遥か上空で、霧を通していくつかの星がかすかに光っている。風が吹いて、建物のそばの木々を動かしていた。
彼女はスーツケースを手に取って中に運び暗い玄関に入り、階段を上って自分の部屋へ向かった。そこでもう一本のタバコに火をつけベッドに腰を下ろした。やがてスーツケースのファスナーを開けた。ローブ、スリッパ、パジャマを取り出した。コールドクリーム、制汗剤、コロン、瓶とチューブ。マニキュア。石けん。歯ブラシ。ベッドの横の小卓に並べた。
スーツケースの底には、サイレックスのコーヒーメーカーと輪ゴムで縛られた小さな茶色のコーヒーの袋があった。そして砂糖と紙コップ。
コーヒーや物を作業員に木箱に詰めさせずに、スーツケースに詰め込もうと考えたのは、とんでもなく良いことだった。彼女はサイレックスのプラグを差し込み、水を汲むために廊下を歩いてバスルームに行った。水とコーヒーをサイレックスに入れた。
それから服を脱いで着替えた。バスローブとスリッパを履いた。タオルを見つけた。温かいお風呂につかってからベッドに入れば疲れもとれる。明日には好転するはずだ。夜、荷物はすべて箱に入れられ、周りは静かでさびれた世界だった。彼女が落ち込むのも無理はない。
これ以上悪いことがあっただろうか? シミのついた何もないの壁が電球の赤裸々な明かりに照らされていた。絵もない。絨毯もない。鉄のベッドと汚れた小卓、瓶やチューブが長い列をなしているだけ。そしてベッドの端に置かれた彼女の下着。ああ!
コーヒーが上へと駆け上がっていく。もうすぐ出来上がる。彼女はプラグを抜いた。なんという生活だろう。一週間ずっとこんな感じなのだろうか? それとも二週間?
彼女はコーヒーを注ぎ少し砂糖を加えた。二週間だ、おそらく。それもヴァーンと一緒に。よりにもよって……。策略だったんだ。人はそれを運命と呼ぶ。
運命。彼女はバスローブ姿でベッドに腰掛け、熱いコーヒーをちびちび飲んだ。なんてひどい状況なの! どうやって耐えればいいの? よりによってなぜ彼でなければならなかったの!?
ありえない。彼女は部屋を見回した。これ以上悪くなることはない? 部屋は寒く何もなかった。寒さはローブの羊毛を通り抜け、彼女の周りに広がり、彼女を凍えさせた。しかしコーヒーを飲むと、幾分気分がよくなる。やがて眠気がおとずれた。頭が鈍く痛んだ。目は乾き疲れていた。
彼女はカップを床に置くと、漆喰の壁に頭を預けてもたれた。彼女の下でスプリングがうなり声をあげた。彼女はローブを緩めた。
彼女は疲れていて、疲れていて、みじめだった。一週間か二週間、こんな生活。そして彼がそばにいる。彼女は目を閉じた。彼女の思考はさまよいだした。彼女は緊張がとけ、頭が沈んだ。首にかかる壁の圧は弱まった。肌に擦れるローブの感触も薄れていった。
彼女は違う時代のことを思い出した。違う場所を。
やがてタバコの火も明るさを減らした。彼女はタバコの火を消した。コーヒーは冷めてしまった。
小さな鉄のベッドに横たわりながら、彼女は思い返し、心をさまよわせた。まわりの何もない部屋は溶けて薄暗くなった。下着の山、瓶、殺風景な壁、すべてが揺らいでいる。
彼女は記憶の中でリラックスしていた。
そこは彼女の記憶の中にあるキャッスルだった。彼らは汚れたズボンとシャツを着て、裸足でバーに入った。バーには木の椅子があり、テーブルの上には木のジョッキがあった。靴を履かない彼らは、足元に床の砂を感じることができた。ほとんどのバーでは魚料理が出された。バーは魚の臭いがした。
だらしなくても、汚くても、笑っていようが、互いにしがみついていようが誰も気にしない。彼女、ペニー、そしてフェリックス。夕方になっても暖かければ、彼らは何も身に着けずに海で泳いだ。時には一晩中泳ぎ、翌日は起きるのが億劫でベッドに横になっていた。
フェリックスとペニーは婚約していた。休暇後の秋に学校が始まる前に、二人は結婚することが決まっていた。もちろんボストンに住むことになる。フェリックスは大学院で工学の勉強を続け、ペニーは少なくとも学位が取れるまでは図書館で働き続ける。
フェリックスは背が高く金髪で小さな口髭があった。彼の目はいつも明るくボタンのように輝いていて、両手をポケットに入れたり本の束を抱えたりして、人を見下ろしていた。肌は明るく健康的で、とても気の好い人だった。バーバラは彼のことが好きだったが、彼女をいらいらさせることがあった。彼は過ちを犯した。話をするときに腕を振るのだ。彼女は彼を真剣に受け止めるのが難しいことに気づいた。
ペニーはふくよかで、厚手のキャンバス地のシャツを着て、タバコを吸い、暖かくて魅力的な人だった。彼女は男っぽく低い大声で心から笑った。彼女は口紅をつけないし、キャッスルに来たときはヒールの低い靴を二足だけ持ってきた。そして男物のズボン。
二十歳のときのバーバラ・マーラーはといえば、彼女がボストンで知ったのとは全く違う世界への対峙法を見つけた。彼女は内気と不機嫌な遠慮が入り混じった感じで振る舞ったのだ。人と一緒にいる時は、隅に座って飲み物を持ち、よそよそしく近寄りがたい印象を人に与えた。男が近づいてくれば、上手に言葉を選んで切り捨てた。実は彼女は怯えていたのだ。自分が追い払った男たちが特に怖かったが、同時に彼らと話したいと強く思っていた。
二十歳のとき、いろいろ試した結果、髪をタイトなショートにしていた。茶色で、太く重く幅の広い房がある。ボッティチェリの智天使のようだ。鼻は大きくローマ人風で、顔には強い硬さがあるが、少年のような若々しさもある。女性的の厳格さと男性的な未熟さの組み合わせ。多くの人にとっては、彼女は女性というより未熟な少年のように見えた。
彼女は細身で腕と脚がきれいだった。手首には真鍮のブレスレットをつけ、それが彼女の唯一のアクセサリーだった。
話したり笑っていたりする人たちを隅に座って見ていると孤独を感じる。彼女は彼らの中に入っていくことを好まず、無理に入ろうとすると、乱暴にゆっくりと一度に数語しか話さない。何年も経ってから、彼らがみな自分のことをタフで堅いと思っていることに気づいた。彼女をひっかけようとした男たちは、それを繰り返すことはなかった。
彼女は毎週家族に、特にお気に入りの弟に宛てて手紙を書いていた。ボビーは十七歳だった。秘書をしていた愚かでわがままな女の子と結婚するために、彼は学校を中退し、彼女は結婚したその週に仕事を辞めたのだ。彼はそのまま学校には戻らず、家族は大変困惑した。その中で、バーバラは、おそらく唯一、個人的に優しく少年に手紙をまだ書き続けていた。彼は姉からの暖かい手紙をありがたく思っていた。
キャッスルはボストンから海へ向かったところにあるリゾート地だった。とても小さな町で、そこに行く人はごくわずかだった。しかしそこには美しい湾があった。冬の間は漁師や商店の人たち、そして彼らの世話を専門の人が一人か二人住んでいた。しかし春になり雪が解けると観光客が現れ始める。やがてボストンからやってきた若者たちの群れに隠れて、そこに住む人々姿が見えなくなる。彼らは海辺にキャビンを借りた。テントを張ったり、車やトレーラーに泊まったり、寝袋で寝たりする者もいた。夏がやってくると新しい顔ぶれが現れ、古い顔ぶれは消えていく。そして秋になると彼らはいなくなった。
七月の今、ペニーとフェリックスとバーバラは暖かい砂浜に寝転んで、タバコを吸ったり話をしたり、魚の匂いや古風な通りや家、海から打ち上げられた古い流木などを楽しんでいた。海と風、魚と塩の匂いと古い材木。しかし休暇の最後の日が迫っていた。もうすぐボストンに帰るのだ。
ペニーとフェリックスは結婚し新しい生活が始まる。しかしバーバラは?
キャビンは二つあり隣り合っていた。一つにはペニーとバーバラが、もう一つにはフェリックスが泊まっていた。滞在数日後の夜、バーバラは目覚めるとペニーがいないことに気づいた。彼女はベッドに一人で、ペニーの方の掛け布団ははだけていた。ペニーはバスルームにはいなかった。ペニーは出かけてしまったのだ。
バーバラはベッドに横たわり、すっかり目を覚まして、考え事をしながら、ブラインドを通して見える窓から外を見た。ボストンの家の二階から見るよりも大きな星が見えた。
暖かい夜だった。あたりは静寂に包まれていた。見慣れないキャビンの中で大きなベッドに一人で横になっていると奇妙な感じがした。まるで列車に乗っているような、世界のどこかに迷い込んだような、行く当てもなく一晩中動いているような。空き地を通り過ぎ、家にはかんぬきがかかり、店は夜の営業を終え、看板は消された。荒れ果てた通り、どこもかしこも静寂に包まれ、そこには生活も動きもない。
彼女はペニーのことを考えた。彼女はいつ戻ってくるのだろう? もちろんフェリックスと一緒にいる。ペニーは二十三歳だし、彼らは婚約して長い。バーバラは漠然とした不幸感に襲われた。彼女は布団を押しのけ、そのまま横たわり、ペニーとフェリックスのことを考えた。暗闇は彼女の素肌には暖かかった。
ようやく寝返りを打ち、眠りについた。
ペニーはたびたび夜にいなくなったので、バーバラには自分自身について、自分が進むべき道について考える時間がたくさんあった。
彼女は若かった。ボストンでの仲間のどの人たちよりも若かった。ここキャッスルでは誰もよく知らない。ペニーとフェリックスがいなければ彼女はひとりぼっちだった。彼女は二人に依存していた。彼女の仲間はここにはいなかった。
彼らはジャズの愛好家だった。ラジオの社交ダンス番組や高校のプロムで人気のあるダンスバンドのジャズではない。南部のジャズ、ニューオリンズのジャズ、リバーボートのジャズ、そして川を遡ってシカゴにやってきたジャズが、彼らにとって本当のジャズだったのだ。シカゴではジャズは本物の音楽となり、偉大なミュージシャンの手にかかると芸術となったのだ。
今は亡きバイダーベック*2のコルネット、ルイ・アームストロング*3のダミ声を聴きながら、彼らは生々しく野性的で洗練された音楽を発見したのである。その音楽は自分たちとおなじように揺れ動いていたのだ。音楽が盲目で迷子なら、彼らもまた同じだった。この音楽が演奏され聴ける小さな場所、カフェや薄暗い小さな黒人酒場で、彼らはこの音楽にしがみついた。そこにはレコードがあり、名前があり、神聖な名前があった。ビックス*4。トラム*5。マー・レイニー*6の硬く荒い声。場所と名前。その音。
これがバーバラの仲間だが、しかし彼らはここキャッスルにはいない。彼らはボストンに戻っていた。彼女はここで、理解できない新しい集団と一緒にいた。彼らが話しているのを見ても、一緒に参加しようとは思わなかった。一種の重い昏迷状態が彼女を覆い、彼女は離れて部屋の奥に行き、一人で静かに座っていた。自分を見ていた。観客のように。椅子の肘に腰掛けたり、ドアに寄りかかったりした。彼女は、軽蔑するように、高慢に、今にも立ち去りそうに見えた。実際は、恐怖の高まり、無秩序なパニックに陥りそうな欲望と闘っていたのだ。
夜な夜な一人で暗闇の中に横たわり、ブラインドを通して大きな星を眺めながら、彼女は自身について考えていた。一年後、私はどうなっているのだろうか? 生きているだろうか? ボストンにいるのだろうか? こんなふうに生きているだろうか?
今のままの人生の前途を考えると、冷たい絶望に包まれた。もしこのまま孤独に、部屋の端に座って、他人を眺めながら人生を過ごさなければならないのなら、自分の身に何が起ころうとも関係ないことだ。自分を傷つけ連れ去っていくあらゆる流れに身を任せた方がよいかもしれない。
ペニーとフェリックスが一緒にベッドに横たわっているのを再び思い浮かべた。汗ばんで、愛の疲労にあえいでいる姿を想像した、静かな時間。そして血。落ち着かず、彼女は布団を蹴り返した。ベッドから起き上がり、暗闇を見つめながら座った。二十歳の彼女の心と身体は、ゆっくりと表に出つつある内なるの熱との戦いの場だった。その症状は長く続いた。激しい憧れと欲望の波がいまだはっきりしないまま、波のように重い液体のように彼女の内側を転がっていた。
彼女は椅子から立ち上がり、行ったり来たりしていた。しばらくするとペニーが静かに中に入ってきた。彼女はバーバラを見て、ドアの前で立ち止まった。
「ハイ、ハニー。浜辺を散歩していたのよ」
「知ってる」とバーバラは言った。「どうだった?」
「よかったわ」
バーバラはベッドに戻った。「来る?」
ペニーがやってきて彼女の横に滑り込んだ。バーバラは彼女の体を感じた。重く堅くほとんど男の体のようだった。彼女は突然息が切れ、体がこわばった。しかしペニーはすでに眠っていた。バーバラは横になって暗闇を見上げ、口を少し開けて体の横で両手を握りしめた。
翌日はキャッスルでの最後の一日の始まりだった。来たときほどお金を持っていなかったので、ヒッチハイクで帰ることにした。
「今ならたくさんの人が海岸をドライブしてる」フェリックスが言った。「ピカピカの車が途切れない」
バーバラは、みんな別行動になるかもしれないと指摘した。三人も乗せたがる車はないだろう。二人でも多い。一番いいのは一人で行くことだが、もちろんそれでは楽しくない。しばらくは後回しにすることにした。それよりも緊急なのは、残っている友人たちが開く最後のパーティーの方だった。
ペニーとフィリックスはそのパーティに一緒に行った。バーバラは帰る前にもう一度家に手紙を書きたかったので、後で行くことにした。彼女は母親と父親に手紙を書いた。そしてボビーにも短い手紙を書いた。
「ボビー、あなたが結婚しているのが時々うらやましいわ。あなたとジュディが幸せであることを願っています。秋になったら会いに行くからね」
彼女は書いたものを見て、新しい紙を取り出して書いた。
「機会があれば二人に会いに行って、結婚生活を見てみたいわ。役立つことがあるかもね」
彼女はさらに手紙を書き、それを封筒に入れて封をし、三通の手紙に切手を貼った。しばらくして彼女はクローゼットに行き、パーティに着ていく服を出した。ベッドの上に濃い緑のスカートと、淡い灰色のブラウスを出した。ヒールとストッキングを注意深く履いた。髪を下ろして櫛でとかし、銀色の留め具で髪をとめた。
スカートとブラウスの上にスエードの皮のジャケットを羽織った。ジャケットのポケットに手紙を入れ、ドアに鍵をかけ暖かい夜の中に出て行った
パーティーで大きなソファーの肘掛けに座り、人々が話し笑っているのを見て、彼女はキャッスルを去るのが本当に惜しいと思った。彼女にとってボストンは、陳腐な空気、見慣れた通りや丘、昔と同じ顔、高校、映画館、いつもと同じ生活に再び戻ってしまうのだ。以前と全く同じ。
彼女は戻ったら以前と同じように物事を始めなければならない。変化はない。ただ違うのは以前に増して一人になることだ。ペニーとフェリックスは結婚して、二人だけで離れていく。
彼女は目を閉じた。部屋のざわめきが彼女の周りを回っていた。どうすればいいのだろう?
そんなことを考えていると、一人の男が近づいてきた。他の誰よりも年上の小柄な男で、パイプを持ち、グレーのしわくちゃのスーツを着ていた。
「君は飲んでないね。何か持ってこようか? スコッチと水でいい?」彼は手にグラスを持っていた。
バーバラは首を横に振った。「結構よ」
「本当に?」
「ええ」
「ちょっとだけ僕の酒を持っていてくれないか?」彼はグラスを彼女に差し出し、彼女はゆっくりと受け取った。男は立ち去り、しばらくして別のグラスを持って戻ってきた。彼はニヤリと笑い、べっこう縁の眼鏡の奥で目を踊らせた。彼女は思った。なんと奇妙な小さな顔だろう、とても薄くてしわだらけだ。まるで小さなプルーンみたいな。
「こっちの方がいい」彼は言った。「こっちの方がたくさんはいってる」
彼女は怒りだした。しかし彼女は笑った。彼がニヤニヤ笑って彼女を見ていたからだ。
「わかったわ」彼女は言った。「お酒をちょうだい」
二人は飲み物を交換した。バーバラは少し口をつけた。その酒は冷たくて強かった。彼女は鼻に皺を寄せた。男は立ち去ってはいなかった。彼はまだソファの端で彼女のそばに立っていた。
「僕の名前はヴァーン・ティルドン」
(第3章へ続く)